第8章 最後の夜
場は白けるが今はそれを気にする程気が回らなかった。
イルミは長い前髪を小さな溜息と共にかきあげる。一旦は諦めた風に見えるその様子にしばしの安堵を得る、まだ整わない呼吸の中 美結は無意識のうちにイルミの手元を目で追い掛けていた。
「さっきごめんね…」
「なにが?」
「手…思い切り噛んじゃったから…」
「ああ ミユに噛まれるくらい痛くも痒くもないから平気」
イルミは手先をくるりと回してみせる。力を加減する余裕もなかった筈だが歯型すら残らない指先は見事なまでに綺麗なままだった。しばらくの間ぼんやりと、その手を見つめていたかと思う。
「…………ねえ、イルミ」
先程の所作を真似るよう 美結の片手がイルミの口元に伸びる、指の腹で薄い唇を撫でてみる。
「…私の指も噛んでいいよ」
「いいよ。てゆうかオレそういう趣味はないし」
薄く開かれた口の中に指先を入れれば、舌でそれを舐められる。
冷静な顔付きのまま味わうように。イルミの虚ろな暗い目はその単純な行為を恐ろしく妖艶に見せ 思わず見惚れてしまった。
少しづつ範囲が深くなる、指のラインを辿られ指の付け根に唇が触れた。美結は目元を細くする。指が甘美に汚される様に目が離せなくなる。
「…………」
「気持ちいいの?」
「…え…」
「指ってのは結構神経が多い 人間の五感の一つで1番使う触覚は手だし。拷問でも指折るとか爪を剥ぐとか基本だしね」
イルミはそう言いながらジェルコートのかかる人差し指の爪先を噛んでくる。そこからパキンと微かな音がした。
「爪の根元にある細胞も感覚を伝える大事な役目をしてるから。……仕事をする上でオレは視力よりも手先の感覚を失う方がリスクだな」
「…………っ」
こんな時に余計な話はしないで欲しかった。
急に、手を引っ込めたくなる衝動に駆られ 感傷的になってくる。別にイルミを“こわい”と感じたわけじゃない。
「どうかした?」
「…何でもない…っ」
むしろその逆だ。
こんなにも触れたくて欲しくて、好きで仕方がないのに、知れば知るほど遠い人間で。こんな時にまで住む世界がまるで違うと見せつけられる思いがした。