第5章 見返りはパン以外で
「……なにが無理か理由を言え。」
さすがに即答で断りすぎたのか、ローの機嫌が地を這った。
「だって、男の人を呼び捨てたことなんかないですし、ましてやトラファルガーさんは年上ですし。」
「俺がいいと言ってるんだ、問題はねェ。」
「……馴れ馴れしいのは、嫌いなんじゃなかったんですか?」
ムギの記憶が正しければ、先ほどローは女性に馴れ馴れしく名前を呼ばれるのが嫌だと言っていた。
それなのに、ムギに呼び捨てを求めるのは間違っているような気がする。
しかし、ムギが指摘した矛盾を彼は鼻で笑ってみせた。
「俺は、知らない女が勝手に名前を呼ぶのが嫌だと言ったんだ。お前と俺は、そういう関係じゃねェ。なにせ、同じベッドを使った仲だからな?」
「……!」
嫌な言い方だ。
揶揄われているとわかっていても、頬が熱くなるのを抑えられない。
「わかったなら、名前で呼べ。」
なにがなんでも名前で呼ばせたいらしく、ローはしつこかった。
付き合いが浅いながらも、彼のしつこさを知ってしまっているムギは、これ以上精神をすり減らしたくなくて、早々に白旗を揚げる。
「わかりましたよ。ロー。これでいいんです…か……?」
ムギの声が尻すぼみになったのは、要望に応じて名前を呼んであげたローの顔に、見たことがない表情が浮かんだから。
笑った。
苦笑でも嘲笑でもなく、ただ嬉しそうに微笑んだ。
名前を呼んだだけなのに。
ちょっと投げやりに呼んだのに。
けれど、本人には笑った自覚はなかったのだろう。
天然記念物並みの笑顔はすぐに引っ込み、いつもの仏頂面を浮かべたローは、満足げに踵を返す。
「じゃあな、ムギ。夜更かしはするなよ。」
どこまでも世話焼きな一言を残してタクシーに乗り込んだ彼を、ムギは呆然と見送った。
自分の名前を呼び捨てられた衝撃すら感じず、ただただ、小さくなっていくタクシーを見つめる。
目蓋の裏には、いつまでも彼の笑顔が焼きついたまま。
「なに、あれ……?」
あの笑顔は、夢か幻か。
ひとつだけ言えるのは、ローは会うたびにムギの中の印象を変えていく人だということ。