第5章 見返りはパン以外で
タクシーの中は、ローの部屋とはまた違った意味で密室だ。
構造上隣り合わせに座るしかなく、沈黙がやけに気まずく感じる空間でもある。
行きは具合が悪くてそれどころじゃなかったが、熱が下がって体調が快復してくると、車内の沈黙に耐えられそうになく、ムギは必死になって話題を探した。
「えーっと、そういえば、なんで毎朝うちにコーヒーを飲みに来るんですか?」
絞り出した話題は、ムギが前から気になっていた疑問だった。
パン嫌いなローがわざわざバラティエに来る理由が、ずっとわからなかったから。
「あぁ、毎朝あの時間にコーヒーを飲むのが習慣なんだ。前は他の店に通ってたんだが、面倒が起きて使えなくなっちまったからな。」
「面倒?」
ローから簡単に経緯を聞いたムギは、絶句した。
てっきりローは、他の男性が羨むような生活を送っていると思っていたけれど、女性に好かれる男にはそれなりの被害があるのだと知る。
「じゃあ、前に駅で告白してきた子を断ったのも、そういう理由なんですか?」
「……告白?」
「覚えてないんですか? すっごく可愛い子から手紙渡されてたのに。」
ムギがローに悪印象を抱くきっかけとなった事件だが、本人の記憶にはいまいち残っていなかったらしく、しばらく考えてから思い出したように声を漏らした。
「あれか……。」
「決死の告白を忘れるなんて、ひどいですね。」
「あァ? ひどいわけあるか。いきなり顔も知らねェ女に手紙突きつけられて、喜ぶ男の方がどうかしてるだろ。」
「そうですかね?」
「勝手に名前を知られて馴れ馴れしく呼ばれるなんざ、気味が悪いとしか言いようがねェ。」
話していくうちに、もしやローは女嫌いなのかもしれないと思い始めた。
見た目が良いばかりに、今まで散々苦労してきたに違いない。
「お前は違うのか? 知らねェ男からいきなり名前を呼ばれたら、気持ち悪ィと思うだろ。」
「……なるほど。」
想像すると、確かに怖かった。
(でもそうか、勝手に名前を呼ばれると気分が悪いんだ。)
ならば、ムギも気をつけよう。
妙な巡り合わせで仲良くなってしまったが、できるならば嫌われたくはないと思うから。