第1章 とにかくパンが好き
ホームでの一件を覗き見してしまったために、ムギはいつもよりも遅れてバイト先――ベーカリー“バラティエ”に到着した。
「店長、お疲れ様です。」
「馬鹿野郎! 遅いぞ、ムギ!」
厨房から顔を出した店長のゼフが、開口一番怒鳴り散らす。
怒られはしたものの、正確には出勤時間の5分前なので遅刻はしていない。
けれども職人気質なゼフは、バラティエの従業員たる者、15分前行動が鉄則である!というちょっとブラックなルールを掲げていて、従業員はそのルールに従っている。
だったらその分給料つけてよ……と言いたくはなるが、朝食や昼食をサービスしてくれる太っ腹加減を鑑みれば、そんな文句を口にできるはずもない。
「お前が来ねぇと、パンが売れねぇだろうが!」
「はーい、すみません。」
バラティエは店長の口の悪さと横暴さゆえか、従業員が極端に少なく、万年人手不足である。
店員数はムギを入れても四人しかおらず、他の三人はパンの作り手でもあるため、ムギがいない時間は職人が売り子を兼任していた。
しかし、バラティエの職人はゼフを含めて全員個性が強く、あまり接客には向いていない。
だからこそ、耐えかねたゼフが売り子をひとり募集して、ムギが働けるようになったわけだが。
白いコックシャツに黒のストレッチパンツ、臙脂色のショートエプロン。
セミロングに伸ばした小麦色の髪をひとつに束ね、黒いハンチング帽を被れば仕事の始まりである。
ここはパン屋だ。
店内にはいつでも香ばしいパンの匂いが漂っていて、息を吸い込むだけで心がぽかぽか温かくなる。
こういう気持ちを、お客様にも分けてあげたい。
自然と生まれた笑みを浮かべ、ムギは朗らかに声を出す。
「いらっしゃいませー!」