第3章 ご一緒にパンはいかがですか?
ムギの記憶の限りでは、ローが店にやってきたのは初めてだった。
とはいえ、ムギの勤務年数は微々たる月日なので、以前に彼が来店したかどうかは確かではないが。
そこまで考えて、だからどうしたと思い直した。
何度でも言うが、ムギとローは一切の関わりがない。
お互い喋ったこともなく、共通の友人がいるわけでもなく、同じ学校ですらないムギとローは、ただ最寄り駅が同じだけという他人だ。
妙に睨まれる理由が気になっていたけれど、それも昨日判明し、胸のもやもやが晴れたばかり。
同じ駅で嫌いな食べ物を貪り食う女は、たいそう珍しく不快だっただろう。
個人の自由なので詫びるつもりはないものの、見知らぬ女子に睨みを利かせるローだって同罪だと思った。
ムギにとってローは、“なぜか睨んでくるイケメンさん”から“パンが嫌いなイケメンさん”へと降格している。
そんな彼がなにゆえにバラティエを訪れたのかは気になりつつも、それこそムギが関与すべきところではない。
ムギはただ、いつもどおり仕事をすればいいだけ。
「いらっしゃいませー。本日の日替わりパンは、レーズン入りの千切りパンです。葡萄の形の可愛いパンでーす。ひと粒食べたら、えっと……、止まらなくなっちゃう美味しさです!」
我ながら、語彙力がひどい。
もっとこう……、リポーターのように素敵な食レポで紹介したいのに、国語の成績がアレなムギにはこれが限界だ。
たまにお客様に笑われることもある。
「ムギちゃーん、お会計よろしく。」
「はいはーい、ありがとうございます。」
毎日朝食のパンを買いに来る常連のおじさんに呼ばれ、ムギはレジに急いだ。
購入したのは、玉子サンドとくるみパンと林檎デニッシュ。
レーズンパンが売れなかったのは、ムギの紹介が残念だったせいではないと思いたい。