第6章 パン好き女子のご家庭事情
突然ローに抱きしめられたムギは、少しの間、アブサロムの存在を忘れた。
「ムギを、離せ……、この野郎……ッ」
アブサロムが声を発したことにより、ようやく状況を思い出し、両手でローの腕をばしばし叩いた。
「あの、本当に大丈夫なんで。ちょ、離して、く、苦しい……!」
実は女の子を抱きしめたことがないのでは?というほどローの腕の力は強く、厚い胸板に顔面を押しつけられて息が止まりそう。
胸筋に溺れるとか、冗談じゃなくやめてほしい。
「チ……ッ」
なにゆえに舌打ちをされなければならないのか、息苦しい抱擁から解放されたムギはぜぇぜぇ荒い息を吐く。
この間も、ローの腕はムギ腰に回ったままだ。
「可愛くねェな、少しは喜んだらどうだ。」
「来てくれたのは、う、嬉しい、けど、立派な胸筋で圧迫死したくないんです!」
照れ隠しも含めて言い返したら、至近距離で見下ろされる。
「いつもの調子に戻ったな。」
「……え?」
指摘されて、涙どころか恐怖も震えも跡形もなく消えていたことに気がついた。
ローが傍にいるだけで、ムギはいつもの自分でいられる。
一方、すっかり置いてけぼりを食らっているのは、蹴飛ばされたまま尻もちをついているアブサロム。
「お、お前ら、俺を無視しやがって……! ムギ、目を覚ませ。その男に騙されているんだろ?」
「人聞きの悪ィことを言うんじゃねェよ。前にも言ったよな? ムギは俺の女だ。」
演技だとわかっていても、“俺の女”と断言されると、不覚にも胸がときめく。
しかし、偽りの関係だと知らないアブサロムは、唾を飛ばしながら食い下がる。
「嘘だ、そんなわけねぇ! なあ、ムギ。俺よりそいつがいいのか? お前も、男を顔で選ぶのか?」
顔。
アブサロムにとって一番のコンプレックスであり、トラウマでもある部分。
そうだと頷けば、きっと彼はムギに幻滅して恋から冷める。
その代わり、己の顔を二度と鏡に映さなくなるに違いない。