第6章 パン好き女子のご家庭事情
これまで隠れながらムギの様子を窺っていたアブサロムは、今になって隠れもせずにムギの前に立つ。
ローと電話をしていたことも忘れ、ムギは棒立ちになってアブサロムを見つめ返した。
いつも遠目から見ていた彼の姿を間近で眺めるのは、事件以来初めてだ。
「ムギ……。」
アブサロムが、ムギの名前を呼んだ。
たったそれだけで、悪寒がぞわりと走って冷や汗が吹き出す。
ああ、ダメだ。
思い込みが生んだ過ちを忘れられていると、許せていると感じていたけれど、やっぱりまだ、あの時の恐ろしさが残っている。
そして、彼の中でもまだ、ムギは思い出になりきれてはいなかった。
「ムギ、あの男はなんだ……。」
その瞬間、アブサロムは姿を潜めていただけで、やはりムギのことをつけ回していたのだと知る。
アブサロムがムギをつけ回す理由として考えられるのは、まだムギを諦められないからか、逆恨みをしているからのどちらかだと思っていた。
できれば、後者であれば嬉しかったけれど。
「あいつ、まさかお前の男じゃねぇよな? ムギ、嘘だろ? お前、男なんか作ったのか?」
泣き笑いのような表情で問われ、肺がぎゅっと縮こまった。
呼吸が浅く速くなり、膝が震える。
おかしいな、わたしはこんなに弱かったっけ?
小麦粉袋も担げるようになったし、黒光りする害虫だって駆除できる。
それなのに、従兄ひとりが怖いなんて。
「ムギ、お前は俺のことが好きなはずだろ……?」
「ち、違う……。」
どうしてこんな勘違いを生んでしまったのだろう。
アブサロムは、なぜこんなにもムギを気に入ってしまったのだろう。
彼には、本当のムギなんてこれっぽっちもわからないはずなのに。
「ムギ、ムギ……ッ」
興奮したアブサロムが、一歩、また一歩と近づいてくる。
怖い、呼ばなきゃ、助けを、誰に?
助けてもらいたいと願った時に、真っ先に思い浮かんだのは、無愛想な世話焼きの顔。
モリアでもペローナでも、バラティエの仲間たちでもなく、偽りの恋人の顔だった。