第6章 パン好き女子のご家庭事情
これまでにも、肩や腕を掴まれたことは何度かあった。
しかし、手のひらをぎゅっと包まれるように繋いだのは、人生においても初めてだ。
心臓が早鐘を打ち、変な汗が出てくる。
恋心を抱いていない相手だからといって、なにをされても平気なわけではないのだ。
(手が、手が大きい……。指も長いし、わたしはどう握り返したらいいの? え、力加減はどれくらい?)
成すがままにされているムギの手は、現在一方的に握られている。
これはムギのための演技なのだから、ムギが頑張らないとダメだろう。
そうとはわかっていても、予告もなしに始まった行為にムギの思考はパニック寸前だ。
肩や腕を掴まれた時とは違って、手のひらから伝わるローの体温がムギの心をめちゃくちゃに掻き乱す。
パニック必至だったムギの行動は、ひとつしか残されていない。
(心を無にしよう。うん、そうしよう。)
手を繋いだ時の対応は、今度ボニーを相手に勉強するとして、申し訳ないが今夜は責任を放棄する。
(心を無に……。そうだ、パンのことでも考えよう。)
パンはいつでも、ムギの心を落ち着かせてくれる。
バター香るデニッシュ、もっちり食感のポンデケージョ、爽やかな朝にぴったりなイングリッシュマフィン。
バラティエでも販売している馴染みのパンの味を思い浮かべて目を閉じる。
しかし、心を和ませてくれるパンの妄想は、なぜだかちっとも効果が出ない。
(……おかしいな。想像だけじゃ無理があるのかな。)
ならば本物を食べるしかないと鞄を開けようとしたものの、肝心の手をローに奪われてしまっているのだと気がつき、絶望の淵に立たされる。
「おい、どうした。」
「いえ……、なんでもないです。」
元凶であるローが怪訝そうに見つめてくるから、つい正直に「動悸息切れがすごいです」と答えそうになったが、そう言ったら最後、いつかと同じようにローのマンションへ連行されそうな気がして、どうにか取り繕う。
緊張のあまり掻いた手汗には、どうか気がつかないでいただきたい。
(ローは、なにも思わないのかな。彼女でもない子と手を繋いで。)
普段と同じく冷静なローの横顔を見上げ、ムギの胸は謎のモヤモヤに苛まれた。