第3章 marcato

昼休憩のサラリーマン達で賑わう、オフィスビルに埋もれるように建つ古びた定食屋の、一番端っこの席…

｢えぇっ、嘘でしょ？ マジで振られちゃったわけ？｣

｢シッ！｣

俺はやたら声のでかい同僚の松本の口を咄嗟に塞いだ。

｢馬鹿、声デカすぎだって…｣

俺が言うと、松本は少し周りを気にする素振りを見せつつ、傾きかけたテーブルに身を乗り出し、

｢だって8年でしょ？ なのに振られちゃったわけ？｣

今度はさっきよりも若干抑えた、でも驚きを隠せない口調で俺に問いかけて来た。

｢まあ…な…｣

｢まあな…って、理由は？ あるんでしょ？｣

定食屋には不釣り合いなパスタをフォークに巻き付けながら、松本は尚も納得いかない様子で詰め寄ってくる。

けど、俺は困惑を顔全体で表現することしか出来なくて…

なんたって、張本人の俺ですら、何がどうなってこうなったのか、さっぱり分からないでいるんだから…

｢えっ…、まさかとは思うけど…、理由聞いてないとかじゃ…ないよね？｣

｢その“まさか”だよ…｣

ただ一言｢ごめんなさい｣と言われただけで、理由なんて何一つ聞いてない。

もしかしたら他に好きな男が出来たのかもしれないし、もしかしたら、そもそも俺と結婚する気なんてなかったのかもしれないし…

でもそれだって今となってはどうでも良いことで、俺が知りたいのは、別の方向に向き始めた俺の興味の正体だ。

正体不明のソイツは、ここ数日俺の思考をずっと支配し続け、俺を悩ませている。

8年間付き合った彼女に振られた傷の痛みすら、綺麗さっぱり忘れてしまうくらいにね…。

俺は空になった味噌汁の椀をトレーに置くと、備え付けてあったティッシュで口元を拭った。