第26章 翡翠の誘惑
手をかけていたタオルを、そっと引っ張る。
まだ濡れている髪が落ちる。いつもの茶色より濡れているからか濃く見えた。
ハンジの体調を憂慮して、髪先をさわってみる。
……半乾きだけど、これくらいじゃこの人は風邪は引かないか。
“馬鹿は風邪を引かない” と昔から言うが、分隊長の場合は馬鹿の正反対にいる天才だと個人的には思っている。けれど風邪は引かないんだよな…。連日徹夜だろうが平気だし、寝不足でぼうっとしているところも見たことがない。
おかしいな、ことわざなんてものは当てにならない。嘘ばっかりだ。
……いや待てよ、巨人のことになると目の色を変える分隊長は巨人バカだぞ? そうか、巨人バカだから風邪を引かないんだな!
そうか、そうだったのか… 巨人バカだから少々髪が濡れていようが寝不足だろうが風邪は引かない。
自分の思いついた考えに気を良くしながらモブリットは、軽い笑みを浮かべてハンジの体を抱き起こして、きちんとベッドに仰向けに寝かせた。
……結構動かしたけど、全然起きないな。
先ほど起こしたら怒られるかもと一瞬でも躊躇したのが馬鹿らしい。
この先嫌というほど思い知らされるハンジの性質なのではあるが、この時点ではまだ知らなかったのだ。
普段は睡眠時間を削って研究や怪しげな実験に没頭するハンジなのだが、眠りに落ちるきっかけさえあれば深い眠りに落ちてしまう。そしてその睡眠が満たされるまで、ちょっとやそっとでは起きないことを。
起きないハンジに安堵して、掛け布団をかけてやる。
「……巨人バカだから風邪は引かないとは思うけど一応…」
そんな軽口をたたきながら。
まだこのときまでは、モブリットの心境になんの変化もなかった。
上司として先輩として尊敬する仲間が、疲れて眠ってしまったのでフォローしただけのこと。
朝に髪がひどい状態にならないように。
行き倒れのような苦しそうなうつぶせの姿勢を直して、風邪を引かないように布団をかけて。
ただ、それだけのこと。
そして自分も寝ようとソファに行きかけたが。
「あっ」
くるりときびすを返した。
「割れたら… まずいよな…」
かけたままだった眼鏡を外した。