第10章 チャイの香りと共に飲み込んで
悲しむ顔は、できれば見たくないんだけど……。
鋭い洞察力をもつが故に、周囲の人間の変化に敏感で、常に気をまわす杏奈。半面、彼女は自分のことを後回しにしてしまう傾向が強く、自分のことには驚くほど鈍感だ。そのうえ、無理をしていることを悟らせまいと、それを隠すのもうまいからタチが悪い。
だからきっと今回の松田の件も、自分が現状に慣れてしまえばいいと、そう考えるのだろうと、萩原には容易に想像がついた。
「本当に…、無理だけはしないでほしいなぁ。」
杏奈が自分の心を押し込めて、ひとりで悲しむところは見たくない。だから別れ際に、祈るようにその気持ちを伝えたのだが、おそらく彼女はそれに気づいていないのだろう。
別れ際にへらりと笑った杏奈の顔を思い出す。
それに俺じゃあダメみたいだし……。
目をそらすことなく、じっと自分のことを見上げ、その手を受け入れていた杏奈のことを思い浮かべる。
拒否はされないが、好きだと言った松田の手に撫でられているときとは、明らかに違う反応を思い浮かべて、萩原はフッと笑った。人工的な街灯の光に照らされたその横顔は、とても切なく見えた。
「……、俺は俺の役目を全うしますか。」
杏奈がひとり悲しまないように、自分が彼女にできること。自分のなすべきこと。それだけを考えて、萩原はアクセルを踏み込む。
法定速度ギリギリのスピードで駈けぬける車が、夜の闇を切り裂いて進む。
願わくば、誰よりも優しい彼女が、悲しまなければいい。
これ以上、寂しい想いをひとりで抱えなければいい。
幸せに笑ってくれれば、それでいい。
ついでに、自分の心の変化にさえ気付けない、不器用で素直じゃない友人が、今度こそ素直に自分の心と向き合えれば、それが一番いい。
穏やかな喫茶店の片隅でみてきた光景を思い浮かべ、萩原は一直線に車を走らせた。
—— チャイの香りと共に飲み込んで ——