第10章 チャイの香りと共に飲み込んで
高校に入学するとほぼ同時にモリエールでアルバイトをはじめて、にぎやかな友人はもちろん、穏やかな森や、優しい常連客たちに囲まれ、満たされた日々を過ごしていた杏奈が、すっかり忘れていた感覚だった。
その名前を思い出した途端に、先程よりも強く胸を襲う感覚に、杏奈はキュッと胸元の服を掴む。
頭の中に思い浮かぶのは、松田のことばかり。
ぐしゃぐしゃと頭をなでる無骨な大きな手。
自分を見下ろすサングラスの奥のやさしい眼差し。
ふわりと指先から香る甘くて苦い大人の薫り。
まだそんなに時間は経っていないはずなのに、そのすべてが懐かしくて、杏奈の胸を締め付ける。
「"寂しい"……さみしいです、松田さん……。」
もう二度と頭を撫でては貰えないかもしれないと思うと、寂しくて堪らない。
胸を締め付ける感情を吐きだすように、小さくつぶやいた杏奈の切ない声は、誰に届くこともなく、静かな部屋に広がり、溶けて消えた。
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さて、どうしたもんかねぇ……。
杏奈を送り届け、自身も自宅へと車を走らせる萩原は、静かな車内でひとり考える。
頭に浮かぶのは、杏奈のこと。
松田の自分に対する行動の変化に、戸惑っている様子だった彼女。
ただ調子が狂うと話す杏奈の言葉は、嘘ではないのだろう。けれどそれが全てとも、萩原には思えなかった。
あの顔は、それだけじゃあないよなぁ。
松田に撫でられるのが好きだと、本人に伝えたと話したあと、一瞬だけ表情を曇らせたのを、萩原は見逃さなかった。
杏奈本人が気づいていない様子だったため、わざわざそれを口に出すようなことはしなかったが、見慣れない表情の変化だからこそ、それは強烈に萩原の目に、記憶に焼きついている。
ただ、やはりその表情の変化がどこから——どういった感情からきているのかまでは、萩原には推し量ることはできない。
杏奈は松田に懐いている様子だったし、松田も彼女のことを気に入ってよくかまっていた。だからこそ、急に態度の変わった松田に、戸惑い寂しがっていることだけは、確かだろう。