第10章 チャイの香りと共に飲み込んで
「はい。萩原さんも、ゆっくり休んでくださいねぇ。」
おやすみなさいとぺこりと頭を下げて、杏奈は萩原に背を向けて玄関のドアノブを掴む。
最後にもう一度ふりかえり、ヒラヒラと手を振る彼に、手を振り返して玄関に入った。
階段を上って自室の窓から通りを見下ろすと、初めてのデートのとき同様、立ち去らずに待っている萩原が見えて。
視線に気付いた萩原が微笑みながら手を振る。それに杏奈が応えると、萩原は車に戻り走り去っていった。
相変わらず律儀だなぁと、車のバックライトが見えなくなるまで見送って、杏奈はカーテンを閉めて部屋の中心へと移動する。
部屋のローテーブルには、萩原からもらったバースデープレゼントがあって。
ほんと萩原さんって、紳士ぃ。
何をするにもスマートで、自然と女性をエスコートし、喜ばせる。あの顔でこの性格なのだから、世の女性なんてイチコロだ。
触れる手もやさしくて、自然だった。
杏奈は萩原に撫でられた頭に触れる。
でもやっぱり、なんか違うんだよねぇ。
労わるように優しく触れる手は、たしかに心地よかった。けれど何かが違う。物足りないような、心が満たされない感覚がするのだ。
杏奈の頭に浮かぶのは、松田の手。
わしゃわしゃと乱暴に触れてくる大きくて無骨な手は、意外にも器用に杏奈の頭をなでまわす。見た目ほど乱暴ではなくて、心地いいくらい。
絶妙な力加減で触れてくる松田の手が、杏奈は好きだ。
ついつい自分から頭を擦りつけてしまうくらいに。
松田の手の感触を反芻していると、不意に胸のあたりがきゅっとした。
萩原と話しながら、松田に頭を撫でられた最後の夜のことを考えていたときも、感じた感覚に、杏奈はそっと小さくないた胸のあたりに手をあてる。
この感覚はなんなのか。昔もどこかで感じたことのある、その感覚の名前を思い出そうと瞼を閉じることしばらく。それがなんという名前なのか、杏奈は思い出した。
そっかぁ……寂しいんだ、私…。
胸が締め付けられて、意味もなく急かされるようなこの感覚。
その感覚ーー感情の名は"寂しい"だ。