第9章 ロシアン月餅ルーレット
「はぁい。善処しまぁす。」
気を付けると口では言うが、それを守ることは恐らくないのだろう。
何せ彼女は興味のものには、恐ろしい集中力を発揮する。
本当にただ気を付けるだけで、結局は忠告を無視して夜更かしするであろうことは、火を見るよりも明らかだ。松田は呆れたようにため息を吐きだした。
「じゃあな。紅茶ありがとよ。」
言いながら松田は、いつものように杏奈の頭を撫でようと手をあげる。
だが不意に思い浮かんだのは、自分に頭をなでられるのが好きだとはにかんだ彼女の顔で。
まだ頭に手を置かれてすらいないと云うのに、杏奈の瞳は嬉しそうに細められている。
それを目の当たりにした松田は、あげた腕を中途半端な位置で止めると、ピンっと人差し指で杏奈の額をはじいた。
「———っぃた~。」
てっきり頭をなでられると思っていた杏奈は、予想外の場所に感じた衝撃に、額を両手で抑える。
不思議そうな瞳で自分を見上げる杏奈に、松田はフッと口元を釣り上げた。
「ぼさっとしてねぇで、仕事がんばれよ。」
揶揄うようにそう告げて、松田はひらりと手を振って、モリエールを後にした。ドアが閉じられる間際、ありがとーございましたぁと、杏奈の声が聞こえた。
駅へと向かう道を歩きながら、松田はじっと自分の右手を見下ろす。
そこにあるのは、普段となんら変わりのない、すこし指先がかさついた無骨な手。
なんで撫でなかった。
松田はいつもそうしているように、自然と杏奈の頭をなでようと手を伸ばした。けれど触れたのは、つるりとした丸い額。
その行動に驚いたのは、杏奈ではなく、むしろ松田のほうだった。
とっさに誤魔化したが、内心は予想外の自分の行動に混乱していた。
自身の心に問いかける松田だが、その答えは浮かびそうにない。
諦めてくしゃりと自身の前髪を握り込んで、松田はポケットの中から取りだしたタバコに火をつける。
深くタバコの煙を吸って吐きだすと、幾らか心の靄が晴れた。
『 松田さんも、自分の気持ちを受け入れて、素直になったほうがいいですよ!! 』
空へと昇って消えていく紫煙を見上げていると、不意に一夜をともにした女性の声が、遠くで聞こえたような気がした。
ーー ロシアン月餅ルーレット ーー