第8章 月夜のティラミス
知り合いらしい青年が杏奈に声をかけるも、残念ながら集中しすぎている彼女は、声をかけられたことに気づかない。青年の声すら聞こえていないに違いない。
かけられた声に気付かないほど集中している杏奈に、青年はどうしたらいいのか分からず、居心地悪そうに彼女のことをみている。
見かねた松田が、机の下で杏奈の向う脛を足で小突いた。
「!?っ痛~~っ。何するんですかいきなりー。」
「バーカ。お前にお客だよ。」
無防備な脛を蹴られ、杏奈は犯人である目の前の男をにらみつける。しかし松田はそんな彼女の視線などものともせず、言いながらクイっと顎をしゃくって、杏奈の背後で驚いた様子で二人のやり取りをみていた青年を示した。
お客さん~?と背後に振り返った杏奈は、そこでようやく自分の背後にたつ青年に気付く。
「あれ~?こんなところで会うなんて奇遇だねぇ。」
背後を確認した杏奈は、そこに立つのが知り合いだと気づくと、ぱちくりと瞳を瞬かせた。
へらりと微笑む杏奈に、青年はホっと安堵したように、そうだねと頬を緩ませる。
「坂口も宿題?」
「んーんー。それとは関係なく、ちょっと調べものしたくてー。」
ここがこの辺りで一番おおきいからねぇと、のんびりと話す杏奈に、坂口は相変わらずだなと青年は可笑しそうに笑った。彼も彼女の趣味を知っている一人なのだろう。
「そっちは、歴史の課題~?」
杏奈はちらりと青年の手にある本をみる。
彼の手にある本は、どれも歴史にかんするものばかり。大方、歴史のレポートを仕上げに図書館を訪れたのだろう。
杏奈の言葉に、そうだよと青年は手に持っていた本を掲げて見せた。
宿題の進捗具合や、出された課題についていろいろと意見を交換する二人のやりとりを、何となしにみていると、不意に青年と松田の視線が交わる。
「えっと……その人は?坂口のお兄さん……?」
先ほどから気になっていたのだろう。恐る恐る問いかける青年。
彼の言葉に杏奈は違うよぉとゆるゆると笑った。彼女の否定の言葉に、青年の表情が曇る。