第8章 月夜のティラミス
どれだけ集中してたんだ、俺は。
周囲に気を配りつねに気を張りつづけることの多い職業に就いていることもあり、松田はいくら集中していたとしても、すぐに気がつく。
しかし今回は目の前に座る杏奈が、途中で席を立ったことにも気づかなかった。それほど集中していた。
普段ならば考えられないことだが、その理由に松田は心当たりがある。
松田はじっと目の前に座り、机の上に広げられた資料とにらめっこをしている杏奈をみる。時折、ぶつぶつと何か言う声に、耳を澄ませた。
子供と大人の女性の中間である、高く澄んだ声色。
落ち着きがあるわけではないが、キンキンと耳障りでもない。鈴を転がすような音色は、不思議と心地よく耳の中で響く。
コイツの傍は居心地がいい。
キンキンとやかましい声や、明らかにすり寄ってくるような猫なで声で、ペラペラと聞いてもいないことを話すような、松田が街を歩いていて声をかけてくる女と杏奈は違う。
余計なことはしゃべらず、会話をするときは鈴を転がすような耳障りのいい声色で、のんびりとゆっくりと言葉を紡ぐ。
杏奈の周りは、いつも穏やかな時が流れていた。
忙しない日々に身を投じる松田には、それがひどく心地よかった。
集中し過ぎなくらい集中してしまったのは何も、連日の激務で疲労が蓄積されていたことや、読んでいた小説が面白かったことだけが理由ではない。
杏奈の心地よい空気に、知らず知らずのうちに身をゆだねてしまっていたからだ。
松田がじっと見ているにもかかわらず、目の前の少女は一向に顔を上げる気配がない。目の前から注がれ続ける視線にすら、全く気が付いていないのだ。
相当集中している様子の杏奈に、ほんの少しあきれて。彼女に倣って自分ももう一度、彼女が薦めてくれた本の世界に没入しようと、この穏やかな空気に身をゆだねようと、松田が手元に視線を落としたとき、不意にその声は響いた。
「……坂口?」
不意に静かな空気を割って入ってきた声に松田が視線をあげると、松田の斜め前――杏奈のななめ後ろあたりに、手に数冊の本を積んだ青年が立っていた。
一瞬、青年が口にした名前が誰をさすのかわからなかった松田だが、彼の視線が杏奈に注がれていたために、それが彼女の苗字だと思い至る。