第13章 原作編《新学期》
紫沫SIDE
いつもなら見上げるその顔が今日は見下ろすところにあって、上目遣いに見つめてくる瞳にドキリと胸が高鳴った。
「紫沫」
日常の会話の中で呼ばれる時とは違う。
穏やかな筈の声音が縛めの様にも聞こえて、震える空気に聴覚だけでなく意識までもを支配されてるんじゃないか。
そんな錯覚が私をがんじがらめにして開きかけた口を閉ざす。
昨夜から息を潜めていた物足りなさを引き摺り出され誘惑が増す一方で、心の中とは裏腹な頭の中で謹慎中なんだと言う意識が一歩前に出そうになった私を呼び止めた。
「やっぱり、私…」
踏み出しかけた足は逆に一歩後ろへと後退し、抗う様に僅かに目線を横にずらしては「行けない」と一言告げれば済む話なのに、自分の中で起きてる葛藤に中々決着をつけられない。
優柔不断な私を他所に突然掴まれた手を引っ張られ身体はバランスを崩し、咄嗟に対処しきれず力のベクトルに従い前へと上半身が倒れ込んだ。
真っ先に知覚が働いたのは辺りを包むお風呂上がりの爽やかな香り。
直後に頭上からする声と目の前に広がる黒色を認識して、抱き留められたのだと知った。
「何をそんなに躊躇ってんだ?」
「…それは……」
ここまでされてはもう抗う余地はないと程のいい諦めの言い訳を思い浮かべる。
それでも口を動かしたのは僅かに勝る理性だった。
「……謹慎中、だから…今日は行けない」
優しく髪を梳かれる感覚がして、その心地良さが胸を締め付ける。
「…わかった」
「ごめん…」
「仕方ねぇことだ。乾かすやつは借りたままになっちまうが、いいか?」
「それは気にしないで」
「ねぇと困るだろ」
誰かに借りれば大丈夫だよと返そうとした私を遮る様にして焦凍君が言葉を続ける。
「だから明日取りに来てくれ。俺の部屋まで」
謹慎の明けた明日を指定されたら、もう断る理由は何もなかった。
「…うん」
「その時、昨日の分も含めて埋め合わせするからな」
もしかしたら焦凍君も同じ気持ちでいてくれたのかもって自惚れを抱き、小さく見上げた顔は直ぐ様影に覆われる。
女子棟から聞こえるテレビの音と話し声を耳に掠めながら交わす、淡いキス。
数えるまでもない刻で放れてはかち合う瞳がもう一度と交わす、アイコンタクト。
少しだけ欲に塗れたキスに酔いしれて、それぞれの部屋へとおやすみを告げた。
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