第35章 毒
家康は逃げていく敵を、黙ったまま厳しい表情で見送った。息を整え、馬上の光秀を見やる。
「時間かけすぎじゃないですか。もう少し早く撃って下さいよ」
「大した時間では無かっただろう。お前なら」
馬上の光秀は少しも悪びれる様子を見せず、笑みさえ浮かべる。普段は嘘ばっかりつくくせに、時々、信用しているという意図を言葉の端にちらつかせるから、この人は本当にたちが悪い。
「全く、人使いの荒い……」
ブツブツと文句を言いながら刀を収める。撤収しようと、家康は光秀に背を向けた。
――ヒュッ
かすかに聞き慣れた、嫌な音が聞こえた。それは通常あり得ない方向からで、家康は空を見上げた。
強風に煽られ制御を失い、予測不能な軌道を描いた1本の矢が光秀をめがけ落ちてきていた。
「光秀さん危ない! 上!」
それは光秀にとっても予測不能だったようで、家康の声で気付いた光秀が、咄嗟に体を捻り矢を避ける。
「くっ」
すんでのところでかわしたものの、矢は光秀を掠めて落ちた。
「大丈夫ですか!?」
「ああ、掠めただけだ。まさか時間をおいて真上から降ってくるとはな」
恐らく光秀を狙って弓を構えていた敵が、倒されたと同時に空へ向かって矢を放ってしまい、それが風に煽られ時間差で落ちてきたのだろう。そんな軌道を読める者など誰がいようか。
掠めたという光秀の腕には鮮血が滲んでいた。
「とにかく手当てしないと。急いで戻りましょう」
「ああ……」
グラリ、と光秀の体が傾いたかと思うと、ドサリと馬から滑り落ちた。
「毒矢、か……」
とたんに光秀の額から大粒の汗が吹き出し、体は熱を持ち始める。家康はすぐに血を吸い出し毒を吐き出した。
「悪い、家康……」
「いいから喋らないで。すぐに帰って解毒します」
ふっ、と笑った後、光秀は目を瞑った。家康は力の抜けた光秀を連れ、大急ぎで陣営へと戻って行った。
「……さえり……」
熱にうなされる光秀の口から、愛する人の名前がこぼれ落ちて消えた。