第35章 毒
光秀とさえりが恋仲宣言をして間もなくの頃――
「はぁー……」
安土城の廊下で、家康は誰ともなしにため息を漏らした。
今日は風が強い。まるで心にぽっかりと空いた穴を、吹き抜けて行くかのようだ。原因は分かっていた。二人が恋仲宣言をした直後からこうなのだから、分からないはずがない。
「家康、どうしたの? なんか元気ないね」
「さえり……」
声がした方を振り返ると、心配そうな表情を浮かべたさえりが近寄ってきた。
「別に、そんなこと無い」
「そう? なら良いけど」
にこりと微笑むさえりに見とれかけて、家康は慌てて目を逸らした。本当にさえりの笑顔は目に毒だ。この淡い想いは諦めなければならないのに――
ビュウゥゥゥーー
その時、砂を巻き上げるような強い風が吹きつけた。
「きゃっ」
「さえり、大丈夫?」
「ん、ちょっと目に砂が入っただけだから」
目をゴシゴシと擦るさえりの手首を、家康は掴む。
「擦ったら駄目。診せて」
よく診ようと顔を覗き込むと、さえりの目が泳いだ。
「家康、近いっ……」
「あっ……、ごめん」
「ううん、大丈夫だから……」
慌てて手首と顔を離すけれど、潤んださえりの瞳に魅入られ、気付けば手を伸ばしていた。さえりの頬に触れる直前で、何とか押し留める。
「家康……?」
家康の不可解な行動に、さえりは困惑した表情を浮かべた。そして何か言おうと口を開きかけたその時。
「そこまでだ」
さえりを後ろに抱き寄せた人物がいた。光秀だ。
「家康がそんなに手が早いとは知らなかったぞ」
光秀は笑みを浮かべていたが、目は笑っていなかった。
触れかけた手からさえりが離れ、家康は虚空を握りしめる。
「……そういうんじゃないです。目に砂が入ったって言うから診てただけです」
「ほう。砂が」
光秀はさえりの顎を掴んでさえりを覗き込んだ。さえりは恥ずかしそうに、しかし少し嬉しそうに頬を染める。
見ていられなくて、家康は二人から目線を逸らし、クルリと背を向けた。
「ちゃんと水で洗いなよ。じゃあね」
まるで逃げるかのように、その場を後にした。