第34章 月見酒
ふいに投げかけられた質問に光秀は首を傾げた。信長がその様な事を聞くとは珍しい。
「何か気にかかる事でも?」
「いや。俺の両腕が無事なら何も問題はない。相変わらず左腕の方は自由気ままに動くが、最近は命を大事にし始めておるようだしな」
光秀は黙した。確かに信長が言う通り、今まで自分の優先順位は低かった。しかし今は大事な人を悲しませたくないという欲が出てきていた。それを、信長は見抜いている。
「信長様」
光秀は信長を見据え、背筋を伸ばした。今日ここに来た本来の目的。先日とは違い、打算なく、さえりとの事を改めて礼する為に来たのだ。
「よい」
月を見ながら盃を傾けていた信長の視線が光秀に移る。全てを理解している目だった。
「俺は益にならんことはせん。せいぜい役立てることだ」
信長の言葉は一見冷たい。しかし光秀は『お前にはさえりが必要なのだから大事にしろ、貴様は今まで通り俺の役に立て』と解釈した。
やはり間違っていなかった。さえりの事を含め、自由に動く事を許す、最大の理解者だ。自分が一生仕えるべき主は信長しかいない。
光秀は黙って深々と頭を下げた。
その鼻先に空の盃が差し出された。顔を上げ、光秀は静かに酒を注ぐ。
「あとは右腕が自らを大事にすれば良いのだが」
恐らく信長は、秀吉と光秀を大事に思っていることさえ気づいていない。その信長を支えることが自分達の使命。己が義、の為にも。
「右腕が従順な割に頑固なのは信長様の方がご存じでしょう。しかし、その右腕のお陰で左腕は安心して動く事ができます」
「まったく、厄介で役立つ両腕だ」
天主に笑い声が響く。
男達の静かな宴は、その夜、月が姿を消すまで続いたのだった――