第1章 或る春の日
春
里一帯に広がる梨花の白い花びらが吹雪のように舞い踊る、1年で一番紅山が美しいと僕も思う季節。
神懸かっているかの如く幻想的な雰囲気は、今になって思い返せば『妹』によく似合っている。
僕の部屋と『妹』のいる部屋の間の渡り廊下から、満開の梨花が見られることも、僕の気まぐれを引き起こした一因だ。
それは兎も角。
僕が『妹』に会いに行くと、そこにいた侍女や母は驚いた顔をした。母が驚く顔は滅多に見られないが、僕はその珍しい状況を生み出した。
「虚人、狐狸、悪鬼?どんな名前がいいかしら?」
息子ながらに美人だと思う母だが、その口から紡がれる僕の妹の名前候補はろくなものではなかった。
母の腕の中の『妹』に手を伸ばせば、紅葉のようなちっちゃな手が僕の指を握る。きょるんとした大きな瞳から黒檀が見え、僕と目があった。
新生児の身体発達から言って目が合うはずがないのだが、確かに僕と『妹』は見つめ合っていた。
その時の感情を上手く言い表す言葉を僕は知らない。
真っ黒な闇色の瞳の奥の、深い紫の揺らめきはは、何処までも澄んでいて、怖いというよりは綺麗。
完璧な優しい笑顔がいとも容易く剥がされて、残酷なまでに"僕"が浮き彫りになる。
"鳳麟"の僕では駄目なのだと悟る。
僕自身ですら分からない"僕"そのものでなければ、『妹』は応えてくれない。
「梨雪。
この子の名前、梨雪がいい」
ーーー最大限素直な"僕"の唯一を表す名前。
窓の外で咲き誇る一族の花。
桜より桃より目立たないけれど、どこか神秘的に思う。
そして、何者にも穢されていない、真白で純粋な存在が、雪を連想させた。
平凡な名前ではあるが、虚人やら狐狸やら悪鬼よりはましだろう。
そう言うと、母はまたも驚いた顔をして(本当に珍しい!)、「まぁ、いいかもね」と返した。
僕は、母によって自分の目の前に吊り下げられた『妹』梨雪に、我知らず、優しい完璧な笑顔とはかけ離れた、自然な笑顔を浮かべていた。
「初めまして、梨雪。僕は、君の兄だよ」
有り余る知識でも何でもない、只の直感。
「梨雪」は"僕"の唯一だ。
ぱちり、と梨雪の大きな黒瞳が瞬いた。