第7章 ✼月見草✼
怒りを孕んだ、聞き慣れた声。
だけど、その声にいつもの柔らかさは微塵も感じられない。
聞き慣れた声なのに、聞いたことの無い声だった。
「信玄……?」
鬼の形相をした信玄は、俺と女の間に入るようにして立つ。
「お前が城を抜け出すのが見てたからついてきてみたが……案の定か」
やはり、この男も何か知っている。
「信玄。その女は何者だ」
この期に及んでまどろっこしい言い方などしない。
それでもまだ隠すというのなら、信玄とはいえ切りかかろう。
信玄は一瞬迷ったように見えた。
女を横抱きにして、再び俺の前に立つ。
信玄の腕の中で、苦しそうに息を繰り返す女を見ているとまた胸が軋んだ。
そして信玄は語る。
この女の正体を…………
「この女は俺の恋仲だ」
「なっ……」
驚きすぎて言葉も出ない。
信玄の恋仲がただの針子だとでも言うのだろうか。
「どこの姫かは言えない。だが結も姫の身分だ」
「ではなぜ針子などに……」
「お前が記憶を無くしたと聞いて苦しませたくない、とそう言っていた」
(俺が苦しむから……?)
確かに何かを思い出そうとすれば痛みに襲われる。
「お前とも……そうだな。仲良くしていた。思い出せないかもしれないけどな、事実だよ」
俺と当然のように言葉を交わしていた女……ならば酌をしたことがあっても不思議ではない。
では今俺は何をした……?
怒りに任せて華奢な体を木に打ち付け、自分と仲がよかった相手を間者か権力狙いだと疑い、心も体も傷付けた。
俺が味わった最愛の人を喪う地獄を信玄にも味わわせようとしたのか?
「何をしている、俺は……」
自分のした事があまりに恐ろしく、手が震えた。
「お前が簡単に女に手を上げる女だとは思ってない。だがこうなった以上もうお前には会わせられない」
信玄はそのまま足早にその場を去っていく。
最後に見た瞳には色々なものが混じっているように見えた。
怒り、悲しみ、失望……?
今の俺には分からない。
木に触れると、木肌がごつごつとしていて、所々尖っているのが分かる。
……きっと、痛かっただろう。
乱暴に頭をかきむしって、その場に座り込む。
もう遠くに行ってしまった信玄は一度も振り返ってはくれなかった。