第8章 縮まる距離
「あの、家康さん。あそこにいる子鹿って…」
何故家康の御殿にいるのか気になったので、聞いてみた。すると家康はこちらを向き、さくらの問いに答える。
「あれは、非常食」
「え?!」
家康の言葉に驚き、「食べるんですか……!」と思わず声を上げてしまった。
「……冗談。怪我、してたから連れて帰ってきたんだけど…懐かれたからそのまま飼ってるだけ」
そう言って庭の方に近づき、子鹿を呼んだ。
「おいで、ワサビ」
「ワサビ?」
「この子の名前」
「…家康さんが、付けたんですか?」
「……そうだけど」
思わず笑みが漏れる。辛いもの好きの家康さんらしいなと思った。
「文句でもあるわけ?」
「え?ふふっ、文句なんてないですよ。“ワサビ”って可愛い名前だと思います」
笑顔で答えて、そばに寄ってきたワサビの頭を撫でる。
ワサビも気持ちが良いのか、その場を離れようとはしなかった。そんなワサビに声をかける。
「不思議、あなたとは初めて会ったのに…初めてじゃ無い気がするの」
さくらの言葉を理解したのかは分からないが、ワサビは一度顔を上げて数回瞬きした後、また気持ち良さそうに頭をスリスリしてきた。
「…ダメ、ワサビ。さくらはあげないよ」
「え?」
「あんたもだよ。何ワサビに浮気してるの」
「う、浮気?!」
そんなつもりじゃ…、と慌てて否定するさくらに家康は悪戯な笑みを浮かべる。
「動揺しすぎ」
「う、すみません」
「ワサビには触らせてあげるから、いつでも来ると良いよ」
そう照れたような笑顔で言ってくれる家康を見て、心臓が高鳴る。
その笑顔は反則だ。今まで素っ気なかったのが嘘のように表情豊かだった。
「家康さんは…ツンデレさんなんですね」
「…“つんでれ”って、何?」
ポツリと呟いた言葉を家康は聞き逃さず問いかけてきたが、それを正直に教えたら明らかに機嫌が悪くなるだろう。
さくらは笑顔で「内緒です」と答え、これ以上聞かれないようにワサビに「また来るからね!」と頭を撫でた。
後日、“つんでれ”とは何か舞に聞いたら“家康みたいな人のこと”と返ってきた。結果、家康が“ツンデレ”の意味を知るのは、ずっと先の話。