第5章 chapter 5
【現在】
『あの事件』それは他でもない…今まで智くんが死んでいたと、そう言われる原因の事件。 言われるというか、死んだとされた事件ってところかな…。
その事件は、俺と想いを交わした数日後に広まった噂の張本人、美術講師の高沢が起こしたものだった。
あれは、忘れられない…忘れたくても、当時の絶望や怒り、悲しみで掘り起こされる嫌な記憶。
俺は、そこで思い出すことを辞めた。 もう、あの時と同じ思いはしたくない。
今、俺の目の前にいる智くんを想っているだけで充分だ。
「そっか…そう、だよね」
「うん、ごめんね…翔くん、僕の絵、好きって言ってくれてたのに」
智くんが、悲しそうに俺の事を見つめてそんな事を言うから、思い切り首を振って否定した。
「良いんだよ、俺は…智くんが生きていてくれた事だけで充分だから」
「嬉しい…」
智くんが最後にそう呟いたっきり、俺と智くんの間には静寂が流れた。 8年間という時の壁がそうさせるのか…あの頃のように会話が続かない。
どんな事を話していたのか、俺はもう忘れてしまった。 思い出そうとしても、今まで智くんはこの世に居ないとされていたから、それを思い出すのが苦しくて、記憶に蓋をし続けたせいかもしれない。
沈黙が気まずくて、俺はコーヒーを口に含んだ。 すると、智くんの方から会話を投げかけてきた。
「そうだ、さっき連れてた子…翔くんの子?」
「え、あ…ああ、うん」
智くんの方から、言葉がかかると思っていなかったから、返事がぎこちなくなってしまう。
「名前、なんて言うの?」
「潤って言うんだ…真っ直ぐで、まだ社会を知らない幼い子だよ」
「ふふ、なんか翔くんの子供って感じだね」
「そう、か…?」
「うん、可愛かったよ…お話してみたいな」
智くんが、俺の方を見ながら微笑むから、泣きそうになる。 でも、潤の事やっぱり智くんは、可愛いとそう言ってくれた。
このぎこちなさも、時間をかけて埋めていけばいいのだろうか。