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「ほととぎす」「難波江の」

第1章 つかの間の恋


先に席を立ったのがどちらだったのか、市場の隣にあるホテルを、どうして阿伏兎が知っていたのか、今も良く分からない。
カフェを出る時、市場の中を出入口へ向けて歩く間、ずっと「今なら間に合う」と考えなかったわけではないんだけど。
アイスティーに、店員が間違えて酒でも混ぜていたのか、それとも買い物中に店主が試食させてくれたお菓子に、良からぬ物でも混ざっていたのか。
いや、たぶん私達は二人して、思い出話に酔っただけだ。
そして、つかの間の恋に落ちただけだ。

人妻だし、夫と付き合う前にもそれなりに経験はあった。
ただ、あんなに我を忘れて抱き合ったのは、初めてかもしれない。
粗末なベッドはうるさいくらいに軋んだが、その音もすぐに気にならなくなった。
阿伏兎は片腕しかないのに、普通に両腕で抱きしめられているよりも、私のすべてがその大きな体を感じた。
何故か、幼い頃にお風呂上がり、母にバスタオルで全身をくるまれた事を思い出した。
生理的な快楽と、懐かしいみたいな気持ちで、どこからくるのか分からない涙が両目からこぼれた。
阿伏兎の少しかさついた手が頬を拭い、さっき飲んでいたコーヒーの香りが残る舌が口に入ってくる。
私は目を閉じて、阿伏兎の背中に手を回した。彼に女がいるのかも分からないから、痕を残さぬよう、爪は立てずにそっと撫でる。
阿伏兎は何故か少し笑い、私の髪を噛んだ。
「体に痕付けちゃマズイだろ」
「…そうね」
私はため息のように答え、そこで意識を手放した。

宿を出る時、阿伏兎は今にも雨が落ちてきそうな空を見上げ、独り言のように、明日の朝に立つと言った。
私は黙って頷いた。夫は明日の夕方に帰って来る。
待ち合わせした市場の入り口で、私達はあっさりと片手を上げて別れた。
一瞬の熱は過ぎ去ったのだと思った。
通りに消えて行く大きな背中を見送り、私は市場へ戻った。
明日は夫の好物を作ろう。魚と、ワインも買っておこうか。
私はさっきまでの事なんか忘れた顔で、自分の為の買い物を始めた。
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