第1章 嘘つき
すると、大きな手が頭の上に優しく乗り、額に柔らかいものが触れた。
そしてまた3秒後、今度は唇に柔らかいものが一瞬だけ触れた。
私は目も開けず、握りこぶしも固めたまま、じっとしていた。
玄関のドアが閉まり、車の走り去る音が聞こえるまで、ずっとそうしていた。
数日後、私はスーツケースを手に、駅に向かっていた。
飲み物を買おうとキオスクに立ち寄り、財布を出した時にパーカーのポケットから小さな紙片が落ち、私が拾い上げる前にタバコを咥えた着流し姿の男性に拾われた。
「すみません」
渡された紙は、あの日山崎さんがくれたメモだ。
私はしばらくそれを見つめ、小さく深呼吸をしてから、目の前の男性に声をかけた。
「あの、ライターお借り出来ますか」
「あぁ」
差し出されたライターは、どこで売っているのかマヨネーズ形の物で、何だかその男性に似合わず、吹きそうになる。
私は笑みをこらえ、カチリという音と共にメモに火をつけた。
小さな紙片はあっという間に燃え上がり、備え付けの灰皿に落ちた。
驚いた顔をしている男性に頭を下げてライターを返し、私は改札を通り、ホームで田舎へ向かう電車を待った。
ペットボトルの蓋を開ける時、少し指先が痛んだ。
さっき少し火が触れたのだ。
私は指先に口付けた。
電車がホームへ入り、どこからか、江戸の風の匂いがした。
「薄紙の 火は我が指を少し焼き 蝶のごとくに 逃れゆきたり」
『薄い紙を燃やした火は、私の指をほんの少し焼いて、まるで蝶のように逃げて行きました。指に微かな痛みだけ残して/斎藤史』
「今はさは 覚えぬ夢に なし果てて 人に語らで やみねとぞ思ふ」
『今はもう忘れた夢として、恋しいあの人には何も言わずに終わってしまおうと思うことだ/西行/山家集』