第56章 それは
ポアロと書かれた大きな窓ガラスから中を除くと、カウンターに立っている零の姿があった。
・・・いや、今は安室透・・・か。
どっちでも彼に変わりないのに。
どう話すべきか少しだけ戸惑いながら、出入口まで進んで。
ゆっくりドアを開くと、聞き慣れた心地好いドアベルの音が響いた。
店内が見えてすぐ視界に飛び込んだのは、窓から見えたあの光景。
「いらっしゃいませ、ひなたさん」
優しく微笑みながらそう声を掛けられれば、さっきまでの無用な迷いは一瞬で吹き飛んでしまって。
「・・・こんにちは、透さん」
微笑み返しながら挨拶をすると、店内の奥の方から今度は梓さんが顔を出した。
「あ、如月さん!来てくれたんですね!」
笑顔で走り寄ってくるなり、私の背後へと回って。背中を軽く押されながらカウンター席に案内されると、改めてその笑顔を向けられた。
「安室さん、今日はずっと如月さんのことばかり話してましたよ」
「・・・え?」
手を添えながら梓さんにそう耳打ちされて。
その手が離れると、自然に視線は梓さんへと向けられた。
「私のこと・・・?」
「ええ!きっとこれは脈アリですよ・・・!」
そういえば彼女には零と私がそういう関係である事を伝えていない。
そもそも明確な関係は持っていないのだけれど。
梓さんの中では、私が零に片思い・・・という所で止まっているんだ。
「そ、そうですかね・・・」
返答に困り適当に言葉を濁していると、カウンターの向こう側から、零が水の入ったコップを目の前に置かれて。
「ランチで良いですか?」
「あ・・・はい、お願いします」
その一瞬目が合って。
心臓が一度大きく跳ねた後、それは飛び出てきそうなくらい心拍を強めた。
「では梓さん、これをお願いします」
「あ、はーい」
彼なりの助け舟なんだと感じれば、少し申し訳無さが出てきて。
それと同時に、改めて感じた誰にも言えない関係ということが・・・酷く苦しくもなった。