第109章 一から
「僕はもう少しポアロを続けることにする。気分転換に良いんだ」
確かに、あそこは少し不思議な空間だ。
気分転換という言葉がよく似合う。
何故かあのドアの向こう側にいると、気持ちが落ち着く。
そういう思い出が多いからかもしれないが。
「それに・・・」
何か言葉を付け足そうとする彼を、カップに入ったお茶に口をつけながら横目で見ると、彼もまた柔らかな笑みを浮かべてカップを手にして。
「ひなたの気が変わるかもしれないからな」
口をつける寸前に、そう言った。
「・・・そうだね」
見透かされているようだ。
まだ、私がポアロで働きたいと思っていることを。
いや・・・きっと、見透かしている。
「それまでは変わらず、お客として来てくれるか?梓さんも喜ぶ」
「・・・うん。行く」
何だか、気が変わる前提のような話で進められているけど。
まあ、いいかとクスッと笑って。
お客さんとして行く時には、工藤くんも連れて行こう。
きっと透さんに会いたいはずだ。
・・・透さんも、彼に会いたいだろう。
「ひなた」
カップをテーブルに置く最中、徐ろに名前を呼ばれたから。
ん?と短く返事をしながら彼の方へと顔を向けた瞬間。
スルっと彼の手が耳のすぐ横を通り抜けて。
それに気付いた頃にはもう、後頭部へと沿わされていて。
逃げないように固定されると、優しく、触れるだけのキスをされた。
突然のことで一瞬固まってしまい、唇が離れた直後はポカンと情けない顔を目の前で晒した。
「そんなに驚かなくても良いだろ」
吹き出すように笑う彼に、更にその情けなさは深くなって。
「だって・・・!」
何か言い訳をしようとしたけど。
不意打ちで驚いた以外の理由が無くて。
ただもごもごと、口篭るしかできなかった。