第98章 金輪際
「・・・一度、事務所に戻って構わないか」
「うん・・・」
どうして、聞いたのだろう。
戻る、と伝えてくれれば良いのに。
結局、彼と目が合ったのは車に乗る前だけで。
それから事務所に着くまでは、会話も何も無かった。
ーーー
「先に部屋に入っていてくれ。すぐに僕も行く」
「うん・・・分かった」
いつもの駐車場に車は止められた。
でも、今日は一人で部屋へと向かって。
あんなに近くに居たのに、心はとても遠くに感じて。
物理的な距離も離れると、それは更に強く感じた。
久しぶりの事務所は、とても広く、寂しく、そして怖くなるくらいに静かで。
聞きたい事は山ほどあるが、何を聞くべきか、何から聞くべきか、今は皆目見当もつかなかった。
「・・・・・・」
数分、立ち尽くしてはその何とも言えない空気を吸って。
何一つ変わらないその部屋を、一通り見回した。
とりあえず、コーヒーでも入れながら彼を待とう。
そう思い、徐ろにキッチンへと向かった時だった。
「・・・?」
勢いよく、足音が近付いてくる。
静かなせいもあるが、部屋の中にいてもそれは確実に耳に届いてきた。
それは玄関・・・いや、それよりも向こう。
その扉の向こう側の廊下から聞こえ、次第にそれは玄関を通り、勢いよく目の前までやってきた。
「・・・零?」
何となく、そうだとは思っていたけど。
でも、ついさっき別れた彼とは随分と感じてくる雰囲気が違ったから。
本当にそうなのか、不安になりながら終始音の先を見つめていた。
「ひなた・・・っ」
実際、彼の姿を目の前にして、見当はついていたのに僅かに驚いてしまった。
肩で息をしながら、焦った表情でこの部屋の扉を乱雑に開けると、私の姿を確認するなり大股でこちらに近付いてきて。
「れ・・・」
その圧に押されて半歩足を引こうとしたが、そんな間も無く。
物理的な距離をあっという間にゼロにされると、強く、痛く、苦しい程に、彼の両腕で抱き締められた。