第91章 ゼロの
「ひなた・・・ッ」
「手当てだけしたら帰るから・・・っ」
表情を見るのは怖かった。
だから視線は彼の顔から逸らしながら、そう言い放って。
ここに居るということは、そういう準備をしてきているのだろう。
そう思い脱衣所の方へと向かうと、案の定、手当用のガーゼや消毒液の入った袋が床へと転がっていた。
それを持って彼の方へと駆け寄り、何も事情を聞かないまま怪我の手当てを始めた。
聞いた所で、今回は公安としての仕事だ。
教えてくれるはずがない。
ただでさえ、彼はあまり話をしてくれないのに。
「・・・・・・」
こうして触れたり、話したりするのは数日ぶりで、嬉しいはずなのに。
・・・こんな状況でなければ。
知らない方が良い事は沢山ある。
けど、知らない事が罪になることもある。
今回は・・・どちらだろう。
「・・・あんまり、無理しないでね」
手当てを終えると、それだけ言って立ち上がり、静かに玄関の方へと向かうと、靴へ足を滑り込ませた。
結局、彼の目は見られなかった。
手当てをしている最中も、自然と逸らしていた。
もっと色んな話をしたかった。
もっと彼に触れたかった。
でも、そんな事したら。
「ひなた」
私の背中に向かって名前を呼ぶその声は、少しだけ優しくて。
「・・・事務所に居てくれ」
「・・・・・・ッ」
でも、その言葉は私にとって優しいとは思えなかった。
彼にとっては優しさのつもりなのだろうけど。
それに返事をすることも、振り返ることも無いまま玄関の扉を開くと、逃げるように飛び出して。
それが自然に閉まっていくのを、背中で感じた。
「・・・ありがとう」
そして、扉が閉まる瞬間、彼の声でそう聞こえた気がした。
それにつられるように思わず振り返ってしまった時、同時に扉は閉まった。
今、ここを開ければ中に彼がいる。
それは明らかな事実なのに。
彼も私も、ここを開けることはない。
少なくとも、彼がここにいる間は。
それは互いに、分かっていた。