第89章 夜桜と
「早速だが、スーツを2、3着と普段着を数枚、近いうちにお願いできないか」
「ほ、本当に何でもいいの・・・?」
どちらも彼にとっては戦闘服だ。
それを、私が選んでしまっても。
「ひなたが選んでくれたものだと思えば、もっと頑張れそうだからな」
言いながら、彼は握っていた手をパーカーのポケットの中に私の手ごと突っ込んで。
・・・いつだったか、前にもこんな事があったなと思い出しては、酷く懐かしく思えた。
たった数ヶ月前のことなのに。
あの時はまだ彼のことを何も知らなくて。
ただ安室透としての彼を好きになっていて。
こんなに、大切な存在になるとは、思いもしなくて。
「・・・ひなた?」
歩きながら、彼の横顔をジッと見詰め過ぎてしまった。
どうした?と問う彼へ、誤魔化すように、何でもないと情けない笑顔を見せて。
ほんの少しだけ、彼に寄り添うようにして歩みを進めた。
ーーー
暫く歩くと、見えてきたのは小さな工場のような建物で。
しかし、それはもう工場としては動いている様子は無く、周りには木々が無造作に生い茂っていた。
ただ建物自体は古びて役目を終えている様子なものの、周りの掃除等の手入れは行き届いている様で。
そして彼がここで足を止めたということは、目的地はここで間違いないのだろう。
「偶然、見つけたんだ」
そう話す彼に僅かな戸惑いは残った。
でも彼が来たかったのなら、と自己解決しかけた時、突然工場の裏手の方へと彼に手を引かれた。
「零・・・っ」
流石にそちらへは勝手に足を踏み入れてはいけない気がして。
軽く手を引いて呼び止めるが、構わず彼は私をどこかへと導いた。
生い茂る木の間を通り抜けてようやく裏手に辿り着いた時、彼の偶然見つけたというものが、工場のことではないのに気付いて。
「わ・・・っ」
目の前にあったのは、大きく立派な枝垂れ桜で。
月明かりに照らされている姿はとても神々しく、時折散る花びらがキラキラと輝いているように見えた。