第89章 夜桜と
「ありがとう」
小さめの声で、なるべく喉の負担にならないようにお礼を言うと、優しい笑顔と共に、どういたしましてと返ってきて。
ポアロにいるような感覚を覚えながら、出されたハーブティーに口をつけると、どこか蜂蜜の甘味を感じた。
「そこで座っていてくれ」
彼は一言そう言うと、床に置いていたベッドのシーツを取り上げて。
あの行為のせいで汚してしまったのかと思うと、恥ずかしさと申し訳なさが込み上げた。
・・・それは今に始まったことでは無いのだけれど。
ーーー
「大丈夫そうか?」
「うん、ありがとう」
あれから簡易的な加湿器を付けてくれたり、体を温めてくれたり、手厚過ぎるくらいに面倒を見てもらった。
お陰で、十分過ぎるくらいにはすぐに回復できて。
「・・・どれくらい寝てた?」
ベッドの上にどれくらい居たのかは覚えていないけど。
ここまで暗くはなかったようには思う。
「30分くらいだが・・・何か用事があったのか?」
そうか・・・彼の、もう起きたのかという言葉通り、それ程気を失っていた訳ではないのか。
「ううん。特に無い」
・・・訳ではなかったけど。
もう、いいか。
本当は、彼とほんの少しだけでも桜を見に行きたかったなんていうのは、我儘過ぎるだろうから。
これから彼の用事が無いとも限らない。
「じゃあ、ひなたが落ち着いたら少し出ないか?」
「?」
どこへ?と視線で問うが、相変わらず返ってくるのは笑顔だけで。
でも彼がそう誘うということは、少なくともバーボンの女としてでも、安室透の助手としてでもないはずだ。
・・・降谷零の、彼女として・・・なのかどうかは、正直確信が無いけれど。
暫くして、約束通り彼と二人で部屋を出ると、駐車場とは違う方向へと歩き出して。
てっきり、車に乗るものだと思っていたから。
「どこ行くの・・・?」
「秘密の場所」
彼は人差し指を口元に当てると、笑みを少し深めて。
その隙に握られた手は、やはり少しだけ冷たかった。