第86章 刻んで※
「透さ・・・」
名前を呼びながら扉を開けた。
・・・と思ったのは体だけで。
引き扉だったそれに体だけはついてきた。
私が開けると同時に開いたそれは、私の力によるものではなかった。
「きゃ・・・っ!」
あまりにも軽過ぎた扉にバランスを崩しかけると、扉の先にいた誰かが体ごと受け止めて。
「大丈夫か?」
咄嗟に閉じていた瞼を開けば、そこには探すはずだった彼がいた。
「大丈夫・・・」
とりあえず体勢だけを整えようと密着した体をゆっくり離せば、零も腰に巻いたタオル以外は何も身に付けていないことに気付いて。
「何、してたの・・・?」
シャワールームに足を踏み入れて扉を閉める彼の背中に、そう質問して。
服を脱いでいた事に間違いは無いが、時間からしてそれだけではないはずだ。
「ああ、すまない。髪を切っていたんだ」
「・・・髪?」
何故、今、ここで?と脳内で疑問ばかりが浮かぶ中、彼は前髪の毛先を指で摘むと、それに視線を合わせた。
「ずっと気になっていたからつい」
言いながら彼がフッと見せた優しい笑顔に、心臓がキュッと締め付けられた。
さっきまで叱られていたのに。
こういう表情をされることにどうにも弱い。
「それに」
相変わらずこういう時には直視ができないと視線を逸らしていた中、ペタっと彼が近付いた足音がして、視線だけを上へと上げた。
「ひなたがどこかに行かないように、きちんと見てないと、いけないからな」
視線だけだったそれは、顎を下から持ち上げられ、何も考える間も答える間も無いまま唇を塞がれた。
彼の片手が腰に回ると、冷たい感触に思わず体をビクッと震わせて。
「ん、・・・っ」
くぐもった声でも、簡単に反響してしまう。
発した声が、発した場所に容易に戻ってくる。
「と、る・・・さん・・・」
だから自然と、小声になって。
何故か立っていられない程、力が抜けてしまった。