第84章 教えて※
「あ、安室・・・さん?」
これで合っているのかと、近過ぎる彼の顔を見上げながら名前を呼んでみて。
そこにまた、懐かしさを覚えた。
「違うな」
「・・・!」
扉についている手とは反対の手が、頬を滑ってきて。
擽ったいような感覚に、思わず目を瞑って肩をピクリと震わせた。
「透、だ」
とおる・・・。
・・・透さん?
「・・・・・・」
なんだろう、この不思議な感覚。
何故かすごく・・・落ち着く。
「・・・透さん」
ポツリと、呟くように名前を呼んだ。
心臓が、異常なまでに早く動く。
痛くて苦しいのに、どこか温かい気持ちになる。
以前そう呼んでいたことを、体はきちんと覚えているように。
「・・・・・・?」
暫くして、彼からの反応も言葉も無い事に気付けば、不安に思って。
落としていた視線を、ゆっくりと彼の体沿いに上げていった。
「・・・零?」
彼の顔が視界に入れば、そこには意外なものが映った。
僅かに頬を赤らめ、目が合った瞬間に今度は彼の方から逸らして。
こんな彼、見た事ない。
多分、初めて。
その情報は不確かなのに、不思議とそう思った。
「・・・すまない」
私の頬に添えていた手を引くと、彼はそれを自身の口元に持って行って。
「ど、どうしたの・・・」
透さん、ではなかっただろうか。
・・・いや、そもそもそういう話では無い気もする。
「何でもない、気にしないでくれ」
そう言って彼は、開店準備に取り掛かり始めて。
何か引っ掛かりを感じつつも、気にするなと言われてしまったのだから、これ以上は問うこともできない。
彼に続いて、私もそれを手伝った。
ーーー
平日の昼間だったが、お客さんはいつもより多く感じた。
そのいつもを覚えている事に安心感を覚えつつ、その日は黙々と働いた。
ポアロでの仕事は不思議と覚えていて。
どこに何があって、何をどうするのかも。
常連さんの顔も、定番のメニューも。
でもそこに、安室透が居たのかどうかは・・・思い出せなくて。