第83章 戻ると
「何か変な事を吹き込まれたなら、忘れるんだ」
「本当に何もないよ。大丈夫だから」
零の言いたいことは分かる。
きっと風見さんの気持ちを察しているのだろう。
・・・彼は・・・零自身は、どう思っているのか分からないが。
「・・・れ、零・・・?」
ただ隣に立ち尽くし、静かに私を見つめてくる彼に視線を向けては、その目を見つめ返した。
彼が降谷零だということは分かるし、そう呼んでいたんだということも頭では理解している。
けれど、そう呼ぶことに少なからずまだ違和感は残っていて。
「・・・少しだけ、抱きしめても構わないか」
そんな切ない声と表情でそんな事を言われれば、断れる訳が無い。
断る理由も最初から無かったけど。
「・・・うん」
小さく頷いてみせると、彼の腕がスっと伸びてきて。
体が密着すると、零の腕は私の背中へと回された。
心臓が張り裂けそうな程に大きく跳ねて。
彼の匂いが、鼻を擽って。
「・・・・・・」
私が知っている降谷零として彼を見られないと同じように、彼もまた私を如月ひなたとして見ることができないのだろう。
だから、抱きしめるのにも一度断りを入れた。
そして。
「・・・キスは、してくれないの?」
何度か強請ったそれも、無いまま。
「退院できたらな」
何かと理由をつけて。
それは私もそうだけど。
「今は体を一番に・・・」
「それは・・・っ」
言ってはいけない。
聞いてはいけない。
明かしてはいけない。
頭では分かっている。
でもこのままが嫌で。
忘れたままも、思い出せないことも。
嫌で。
「・・・貴方が知ってる私じゃないから・・・?」
聞いてしまった。
この言葉が意味することは、彼なら分かるだろう。
風見さんの言う通り、信じようとしていなかったのであれば、一番残忍な事だとは思った。
それでも、このままで離れ離れになることはできないと思ったから。
せめて、事実だけは・・・伝えておきたいと思ってしまった。