第36章 その狡猾さすら愛おしい
ふと視界の隅に見知った黒が飛び込んで水分に気づかれないように顔を上げればそこにいたのは相澤先生で。こちらに気づいたらしい先生はなにも言わず俺たちを見ていた。ああ、くそ、俺もやっぱり酷い男だよ、水分。見せつけるように握った手を引いて水分を抱き寄せる。ちらりと先生を伺い見れば全てを諦めたような、そんな悲しい顔でただこちらを見ていた。
「どう転んだって、俺のところには来ないくせに」
「……狡い女で、ごめんね」
そう小さく零してそっと背中に手を回してくるのだから本当に狡い。けれど今のこの状況は好都合だ、そう思って俺も水分の背へと腕を回しておそらくこちらを見ているであろう先生に見せつけるように抱き締めた。こんな人がたくさんいる場所で、傍から見ればカップルのようだな、なんて思いながら。されるがまま、俺に抱き締められる水分の瞳が触れる胸のあたりがほんのりと濡れて。
「まああれだ。とりあえず、泣きたいだけ泣けよ」
そう言って背中に回した手を水分の顔を胸元へ押し付けるように後頭部へと移動させて抱き込む。すっかり水分からは死角となった相澤先生のいる方向を見ればその光景を見ていた先生の瞳がほんの僅か見開かれて、揺れた。目が合って睨むように見ればすぐにその視線は逸らされて。次の瞬間にはもう姿は見えなくなっていた。
なあ、先生。水分の中からもいなくなってくれないか。先生さえいなければ、なんて。きっとそんなことがあったとしても水分が手に入らないとわかっていながら。