第1章 蛍
部屋に入って来たその人を見て、私は営業用の顔を捨てた。
「伊東様」
「久しいな」
「はい。お待ちしておりました」
本当に。
口元を微かにほころばせた伊東様は、見つめる私に小さなカゴを差し出した。
「何ですかそれ」
問いには答えてもらえず、窓を閉められ、行灯の火も吹き消された。
部屋は闇に包まれる。
「あの…」
ふっと、小さな光が舞った。一つ、二つ、三つ…。
放たれたのは、蛍だ。
「ここに来る途中で売っていた。君は好きだろうと思ってな」
「ありがとうございます。蛍なんて、何年ぶりでしょう。綺麗…」
そっと伸ばした私の指に、一匹の蛍が止まった。
伊東様はいつの間にか私の隣に座り、指先の蛍を見つめている。
「伊東様」
「何だ」
「お帰りになる時、蛍達も連れて行って下さい。そしてどこか、川にでも放してあげてください。遊郭じゃ、生きられないでしょう」
そう言った私の指から蛍が飛び立ち、敷かれた赤い布団の方へ行く。
それが合図だったかのように、伊東様は私の手を取り、蛍の待つ布団へと導かれた。