第1章 憧憬の背中
「いいか、良く聞け?」
昌弘が言い置くと、潤は両の眼をしっかりと見開き、大きく頷いた。
昌弘が“良く聞け”と言う時は、必ずと言って良い程意義深い話であることを、潤は良く知っているからだ。
「この十本の指にはな、それぞれ糸が繋がっててな…」
「糸…? 着物を縫う糸?」
「そう、糸だ」
「おいらの目には、糸なんてどこにも見えないけど…、父ちゃんには見えるのか? その…“糸”って奴が…」
潤は自分の手をまじまじと見つめると、子供らしい疑問をそのまま口にした。
すると昌弘は豪快に笑って、首を横に振ってから、仄かに哀愁を帯びた目を夕暮れの空に向けた。
「残念だが見えねぇよ…、誰にもな…」
「父ちゃんにも?」
「ああ、そうだ。でもな、目には見えねぇけど、おめぇの指から出た糸は、切れることなく誰かの指に繋がってんだ」
「誰かって?」
尚も首を傾げる潤に、昌弘は「さあな」と一言返し、すっかり冷えたしまった腰を上げた。
潤も昌弘に続くように腰を上げると、小さな手で尻に付いた砂を払った。
そして自分の手を薄らと浮かび始めた月に翳すと、
「おいらの指から出た糸…、あの娘に繋がってると良いな…」
月明かりに青白く照らされた頬を、仄かに赤らめた。
それは、
ただひたすらに父の背中に憧れる事しか知らなかった幼い潤の心に、初めて芽生えた恋心だった。
『憧憬の背中』ー完ー