第1章 初めての心
夜中、布団の中で目を閉じたり開けたり繰り返す。もう何度目にか時計を見る。午前3時50分。一向に眠れない。
目を閉じると、桂様が浮かんでしまうのだ。
助けてくれた時、浪人を睨んだ横顔、エリザベスを見る優しい目、溶けていくパフェを前に、泣きそうな私を見た、困ったような顔、歩く後ろ姿、江戸の町を見下ろす、夕陽に照らされた顔。
会計時に、そういえば家族以外の男性と外食をしたのは初めてだと気づき、夫婦になったらこんな感じなのかと思った事。
どうしよう。こんな気持ちになる予定じゃなかったのに。
あぁ、そうか。これが、恋なのか。
時計はいつの間にか4時50分を示す。
うっすらと東の空が白み始めている。
私は眠るのを諦めて起き上がり、窓から外を見て、眼下の光景に息を呑んだ。
そっと、そっと、裏木戸を開ける。朝のひんやりした空気が火照った顔に心地良い。
まだ人通りの少ない町を歩く。
私の前には、白い背中。
窓の下で『自分を騙しちゃダメ。絶対』と書かれた札を持つエリザベスを見た時は、本当に驚いた。
初めて桂様にお会いした橋を渡る。この橋を渡ったところで、浪人達に絡まれたのは、つい最近の事なのに、もうずっと前みたいな気がする。
「あのね、エリザベス、私…」
話しかけた私に、エリザベスは振り返ると、『しーっ』というジェスチャーをして見せた。
「え?」
「殿」
物陰から現れたのは、桂様だった。
「本当に、良かったのか?今ならまだ…いや、良いか」
「はい」
「殿」
「はい」
「昔から良く知っている男に、世の中すべてを壊したがっている男がいる。俺も昔同じような事を思っていた時があったが、好きなものが増えすぎて、考えが変わった。だから、殿の結婚も壊してはならぬと思った。しかしそれよりも、殿の笑顔を壊してしまわぬようにするべきだったな。守る為に、壊すのが必要な時もあるのだな」
「…桂様」
「桂ではない。小太郎だ」
桂様は、そう言って私の手を握ってくれた。
きっとこの後、とんでもなく面倒な事がたくさんあるだろう。
何で私はこんな事をしているのか。いや、理由なんて無い。周囲を納得させるだけの、結婚を断る理由はまだ考えていないけど、恋をするのに理由は要らない。
景色が綺麗だったとか、それだけで良い。
薄く差し始めた朝の光が、私達を照らした。