第8章 【家康・後編】※R18
励ますようにその首筋をゆっくりと撫でると、春雷はお返しとばかりに、そのやわらかな鼻筋を竜昌の頬に強く押し付けてきた。
「なあに?春雷…ふふ。泣いてないよ、大丈夫だよ」
手のひらでぽんぽんと春雷の鼻筋を軽くたたくと、竜昌は厩を後にした。
「また明日ね…おやすみ」
月の明るい夜だった。
まだ眠れそうもないと悟った竜昌は、厩から少し遠回りして客間に帰ることにした。
雲一つない星空を背景に、月に照らし出された漆黒の富士山は、その頂にすでにうっすらと雪の白さをまとっていた。
最後にその美しさを目に焼き付けようと、少しでも富士山が良く見える場所を探し歩いていると、三の丸の片隅に、弓場があるのを竜昌は見つけた。
竜昌は思わず、安土での競射を思い出した。あの競射さえなければ、竜昌が駿府まで来ることもなかったであろうし、家康に秋津城が与えられることもなかっただろう。
そして、自分のあの一言さえなければ─────
『家康様も…ですか?実は私も一番の得手は弓なんです』
競射すら行われず、自分がこんなに家康に恋焦がれて苦しむこともなく、ただ安土での平穏な日々が続いたであろう。
竜昌は、辺りに置いてあった練習用の弓矢を手に取り、的に向かって射た。
しかし何本射ても、全く的に当たらない。
『おかしいな、矢が狂ってるのかな…』
月明りの下、遠くに霞んで見える的をもう一度睨み、竜昌は再び弓を引き絞った。
─── ◇ ─── ◇ ───
竜昌が去った後、とぼとぼと自室に戻った家康は、文机に紙を広げて墨を磨り、何事か書きつけようと筆を手に取った。
しかし全く筆が進まない。
『あの人(信長)に何て言えばいい…?』
自ら請け負ったものの、何を書いても嘘になるような気がして、家康は困り果てた。
竜昌を本多の側室に?ひいては徳川の家臣に?
『自分は…竜昌をどうしたい…?』
家康は、書きかけの文をくしゃくしゃと手で丸め、横に放り投げた。