第8章 【家康・後編】※R18
再び、二人の間を沈黙が支配する。
家康はひざの上に置いた拳を見つめながら、ぎゅっと握りしめた。
「わかった…じゃあそう忠勝に伝えておく。信長様には、俺から文を書くから。安土へ届けてくれる?」
「…はい。かしこまりました」
「それから、これ…」
家康は懐から、小さな紙包みを取り出して、竜昌に手渡した。
「これは?」
「葛湯。さっき直政が、あんたが雨に降られてびしょ濡れだったって言ってたから。風邪ひかないように」
「…かたじけのうございます」
竜昌はそれを受け取り、手で大事そうに包みこむと、例の薬瓶と一緒にそっと懐にしまった。
『…だめだ。このままでは涙が溢れてしまう…』
「家康様、わざわざお見送りにお越しいただき痛み入ります。明日は未明に発ちますゆえ、これにてお別れでございます。私は明日のために、今から馬の様子を見てまいります…」
スクっと立ち上がり、竜昌は障子に手をかけた。
「竜…」
「あと…竜胆の花、ありがとうございました」
何もかも振っ切るように障子を締めると、竜昌は厩に向かって歩きだした。
風にあおられた行燈の火が、家康の虚ろな瞳に影を落とした。
─── ◇ ─── ◇ ───
月あかりを頼りに、厩にたどりついた竜昌は、安土から共に旅をしてきた愛馬を見つけ、そっと忍び寄った。
「春雷、遅くにごめんね」
ほの暗い厩の中、葦毛の若い雄馬は、ブルルと鼻をならして主人の突然の来訪を喜んだ。
「身体、拭いてもらったんだね、良かったね」
竜昌とともに驟雨の中を走り抜き、びしょ濡れになった春雷だったが、ここ駿府の馬丁に、丁寧に手入れをしてもらったらしい。
つやつやとした毛並みはすっかり乾いていた。
「明日から長旅になるけど、よろしくね?春雷」