第8章 【家康・後編】※R18
『ぜったい泣かない。ぜったい泣かない。ぜったい…』
心の中で呪文のように繰り返し、竜昌はひたすら目の前の畳の目を数えていた。家康が言おうとしている言葉はわかっていた。ちょっとでも気を抜いたら、涙が溢れてしまいそうだった。
「竜昌」
「はい…」
家康は淡々と、光秀の密偵がもたらした情報のこと、徳川はこれから上杉・武田と臨戦態勢に入ることを説明し、最後にこう付け加えた。
「アンタは一刻も早く安土に帰って、信長様の命に従ってくれ」
「は、はい…」
少しだけ声が上ずってしまったが、予想していた通りの言葉だったおかげか、なんとか涙をこぼさずに済んだ。
「翌朝、早急に安土へ発ちます。於大の方さまにはお目通りかないませんでしたが、どうかよろしくお伝えくださいませ」
「うんわかった。それと…」
「?」
家康は言いづらそうに口ごもっていたが、やがて覚悟を決めたように口をひらいた。
「本当に、話半分で聞いてほしいんだけど」
「はい…」
「嫌ならぜんぜん断っていいんだけど」
「はい?」
「あの、その、うちの本多が、アンタのことを側室にしたいって…」
「うえ!?」
竜昌はあまりの驚きに、涙は引っ込み、喉からおかしな声が出た。
「な、な、なんと…?」
「断るよね?アンタとは親子ほども齢離れてるし」
「え、はあ、ですが、え、ええええ?」
狼狽した竜昌はろくな言葉も出てこず、ただただまん丸い眼で家康を見つめることしかできなかった。
その時、廊下をバタバタと走る音が聞こえたかと思うと、障子がバンと勢いよく開かれ、そこに睦姫が姿を現した。
きらびやかな打掛はいつものままだが、その可憐な顔を怒りで真っ赤にし、その目には大粒の涙を浮かべている。