第8章 【家康・後編】※R18
「では、藤生殿はどういたしますか?もしも藤生殿が、わが軍に助力いただければ、百人、いや千人力ですぞ」
ここ数日で、すっかり竜昌の武芸の腕前に心酔した忠勝は、身を乗り出して家康に進言した。
竜昌にとっても、徳川軍の一員として刀を振るうことは、願ってもない好機だった。自らに与えられたただ一つの才能である武芸を、家康のために役立てる日が来るのなら…
しかし家康は、しばらくの沈黙ののち、それを否定した。
「いや…あの娘にも、帰ってもらう」
「!!」
障子の陰で、図らずも盗み聞きをしていた竜昌は、家康のその一言を聞いて、堪えきれずにその場を去った。
役にたたないと思われた────
手に握りしめたガラスの小瓶が、痛いほど指に食い込む。
速足で城の廊下を走り去る竜昌は、途中の曲がり角で、榊原とぶつかりそうになった。
「アッ榊原様、申し訳ございません…」
「どうした、そんなに急いで」
「いえ、あの、えっと…」
口ごもる竜昌、その顔は紅潮し、眼はわずかに潤んでいるように見えた。
「そ、そう、この近くに、不二の山がとりわけ美しく見える松原があると聞きまして、そこへ今から行って参ります!」
「ああ、三保の松原か、それなら今日は雲が…」
そう榊原が説明しようとした時には、すでに竜昌は弾丸のように廊下を駆け抜けた後だった。
榊原はため息をつくと、竜昌を追うのはあきらめて、家康たちの待つ城主の間へ向かった。
「大変遅くなりました」
榊原が到着したときには、すでに上杉・武田に対する出兵の話はほぼ決まっていた。
しかし忠勝が、なにやら真剣な顔で、家康に何かを頼み込んでいる様子だった。
─── ◇ ─── ◇ ───
竜昌は馬を走らせ、駿府城を抜けだし、海沿いにある広大な松林まできた。
榊原の言ったとおり、生憎 空は曇っており、富士山は厚い雲に覆われていて、その裾野の形がようやく見える程度だった。
竜昌は松の木に馬をつなぐと、砂浜にひとり歩み出た。
どんよりと曇った空の下の海は黒々としていて、海面には荒々しい白波が立っている。海から吹く強い風が潮を巻き上げ、あたりの空気が塩辛く感じるほどだった。