第8章 【家康・後編】※R18
「榊原康政と申します。藤生殿のお噂はかねがね」
先ほど、睦姫の話題をさえぎって、竜昌の名をだしたのはこの男だった。智将と名高い榊原だが、その姿はまるで役者のように整っていた。
「俺は井伊直政。よろしく」
最後に挨拶をしたのは、まだ前髪を上げたばかりのような若い武将だった。好戦的な鋭い目つきで、まるで竜昌を値踏みするように見つめている。
「藤生殿にはぜひ、駿府におられるうちに、手合わせをお願いしたいものですな」
「え…」
竜昌は返答に困り、つい助けを求めるように、家康の方を振りかえった。
家康はちょっとした優越感を覚え、にやりと唇の端をあげて微笑んだ。
「…強いよ、その娘」
群衆がどよめく。
その時、周囲の注目をあっというまに竜昌にさらわれ、面白くないであろう睦姫が、苛立った声を上げた。
「まあ女だてらに物騒な。さあ殿、お疲れになったでしょう、はやく御殿へ参りましょう」
睦姫はくるりと背をむけると、まるで当然、とでもいうように、今まで女中に任せていた片手を、家康のほうへ差し伸べた。
家康は、溜息をつくと、しぶしぶといった様子でその手を取り、城の中のほうへ向かって歩き始めた。
その二人の姿を見た竜昌は、胸の中でなにかがパチッと爆ぜる音を聞いたような気がした。鼓動が早鐘のように打っているのに、顔からは血の気が引いていく。
『しかるべき家柄の姫君をお迎えするのがならわしだ』
先日、義兄の一之進が言った言葉が、竜昌の頭の中でガンガンと鳴り響いた。
「チッあの女、すでに正室気取りか」
忌々し気にそう直政が言う。
「これ、直政。客人の前で」
榊原は直政をたしなめながらも、うつろな表情で家康を見送る竜昌を、心配そうに眺めていた。
─── ◇ ─── ◇ ───
翌日から、長いこと駿府城を開けていた家康は、溜まりに溜まった公務に追われることとなった。
一方の竜昌は、暇さえあれば徳川家の家臣たちに(主に本多忠勝に)手合わせをせがまれ、家康と顔を合わせる機会すらほとんどなかった。
「あの本多様、わたくしは於大の方様にご挨拶を…」
「ああ、お方様なら腰を痛められて、いま熱海の方へ湯治にいかれておる。戻られるのはいつになるか…」
「なんと…」
「そんなことより、もう一勝負!」