第19章 【光秀編】#2 月夜の兔は何見て跳ねる
「ご挨拶なされますか?」
「いえ、こんな夜分に失礼かと…」
「殿様はもう夕餉を澄まされて、お部屋にいらっしゃいますよ」
きっといつものように、ものの一瞬で夕餉を丸飲みされたのだろうなあ…。その姿を想像して つい頬が緩んでしまったのを、承諾と受け取ったのか、女中さんは私の袖を引いて門内に誘った。
「どうぞどうぞ御遠慮なさらずに。藤生様のことは万事取りはからえと殿様から伺っております」
「えええ…」
ついに私は辞退しきれずに、初めて光秀様の御屋敷へと足を踏み入れた。
女中さんに案内されるがままに進むと、庭に面した縁側に出た。武家らしい簡素な造りの館に、調和のとれた静かな御庭を、月の光が静かに照らしている。
「あちらに」
見ると、その縁側に、まるで月光をそこに集めたかのように、淡い光を放つ人の姿があった。灯り一つない庭に、まるで輝く月の精が降り立ったような姿─────光秀様だった。
光秀様は庭に面した濡れ縁に腰かけ、やや俯いて何かの文(ふみ)を読んでいるようだった。
ずいぶんと時を忘れてその御姿に見惚れていたような気がする。
「修練はどうだった?」
不意に、光秀様の声で我に返った。
夜の闇に溶けていく光秀様の声は、不思議とやさしく響いた。
光秀さまは、ぱたぱたと文を畳むと、顔を上げてこちらをみた。薄暗がりの中でも、光秀様の黄金色の瞳がはっきりと見えたような気がした。
「あ、や、夜分遅く、失礼いたします!」
慌ててその場にかしこまった私を見て、女中さんがくすくすと笑った。
「お茶をお持ちしますね」
「えっ、いや、その、どうぞお構いなく…」
ぱたぱたと去っていく女中さんを見送る私の後ろから、光秀様の静かな声がする。
「どうしたそんなところで。もっとこっちへ来い」
「は、ははっ」
「今日はなかなか良い月夜だ」
足がもつれそうになるのを必死で抑えながら、私は光秀様から一間(1.8m)ばかり離れたところにもう一度座り直した。
「恐れ入ります光秀様。おかげ様で、万事とどこおりなく修練を終えました」
「家の者には伝えてある。いつでも使うがいい」