第19章 【光秀編】#2 月夜の兔は何見て跳ねる
私は立ち上がり、着物についた砂を払った。
「…光秀様のご指導の賜物です」
「よーし私もがんばる!光秀、もう一回撃たせて!」
光秀様の腕の中で無邪気に笑う舞様に、また胸の奥がちりりと焦げた。
修練を終えた私たちは、安土城へと戻った。
光秀様は、用があると言って城下のお屋敷に戻られてしまった。
私は伏せ撃ちで砂まみれになった身体を洗うために、井戸端に向かった。
たらいに水を張り、髪を洗うと、砂にまみれた髪がぎしぎしと軋む。
遠ざかっていく光秀様の背中。光秀様の腕の中でゆるやかに揺れる、舞様の茶色い髪。
目を瞑って髪を洗っていると、そんな光景が頭の中をぐるぐると周り、髪と同じように、胸の中が軋んだ。
そんな想いを振り切るように、頭から水をかぶる。
そういえば童のころ、姉様は私の髪を梳きながら、よく綺麗だと誉めてくれた。母様の髪にそっくりだと。赤子の頃に死んでしまった母様の記憶は、ほとんどない。でも私は自分の髪を触るたびに、母様のことを想った。
もし舞様に勝てるところがあるとすれば、母様譲りのこのまっすぐな黒髪だけだろうか。
「ッツ…」
傷口に水が沁みた。伏せ撃ちのために何度も地面を這った肘と膝は、磨り傷だらけだった。
手拭で髪を乾かし、椿油をなじませていると、後ろでカタリと微かな音が鳴った。
振り返ってみても、誰もいない。よく見ると、井戸端に貝殻が置いてあった。
はて?さっき水を汲んだとき、こんなものがあっただろうか。あったら気付いていただろうに。
手に取って貝殻を開いてみると、ふわりとヨモギの匂いがして、中には薄黄色の膏薬が詰まっていた。見たことがある、これは傷薬だ。
あたりを見回しても、人の気配はない。
ただ遠くから蝉の声がじわじわと響いてきて、夏の始まりを告げていた。