第17章 【信玄編・後編】※R18※
竜昌は、こみ上げる思いで胸がいっぱいになり、しばらく言葉が出なかった。
あれほど信長を憎み、その想いだけを頼りに、この戦国の世を生き抜いてきたはずの武田軍が…
竜昌は熱く疼く胸を押さえ、深く深く息を吐くと、信玄の目の前に同じようにひざまずいた。
「御顔を上げて下さい。武田殿」
竜昌の黒緑色の瞳と、信玄の赤銅色の瞳が見つめ合う。竜昌の眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「武田殿の御心、確かに承りました。必ずや我が殿にお伝えいたします」
「…かたじけない」
信玄は目を細め、にこりと笑うと、片手に持っていた太刀を竜昌のほうへ差し出した。
「近日中に、正式な使者を安土にお送りいたします。今は、この来国長(らいくになが)を申し入れの証として、貴殿にお預けしよう」
武将が腰の刀を預けるのは、命を預けるのと同じ行為である。
「確かに」
竜昌は両手でしっかりとその太刀を受けとった。そしてその確かな重さを感じながら、頭上に頂くように掲げ、頭を下げた。
「…ありがとうございます…信玄様」
下を向いた竜昌の眼から、ぽたりと雫が地面に落ちた。
その時、信玄が つと竜昌の耳に唇を寄せ、小さくつぶやいた。
『…忘れたのか?俺の病』
「!?!?」
『泣いた女は…』
「あ、え、」
びくりと弾かれたように顔を上げた竜昌の頬と耳は、まるで火で焙られたように真っ赤だった。
その様子を見て、【何か】を悟った幸村は、『あちゃー』とでも言うように、手のひらで額を押さえた。
「さ、撤退だ。春日山に帰るぞ」
信玄が立ち上がり、辺りに一声かけた。
武田軍の面子も次々と立ち上がる。
兵たちの表情は晴れ晴れとしていて、中には織田軍の兵と言葉を交わす者、別れの握手をする者たちもいた。
幸村は馬に乗り込む前、竜昌の前に歩み出た。
「御館様を助けてくれて、ありがとう。あと、傷の手当も」
竜昌は首を振った。
「いいえ…真田殿、どうかあのお方を…」
最後まで声には出さなかったが、竜昌の視線が、馬に乗り込もうとしている信玄の姿をとらえた。