第17章 【信玄編・後編】※R18※
小屋で見つけた藁束で、春雷の身体の汗を拭いてやりながら、竜昌は時が過ぎるのを待った。
やがて陽は落ち、辺りは黄昏の色に静かに沈んでいった。
竜昌は、意を決したように振り返ると、足音を忍ばせ、小屋の入り口に近づいた。中には、まだ信玄の気配がある。
ふと頬が緩みそうになる。
信玄を逃がすために戸さえ開けてきたが、彼がいまだそこに留まっていることに、心の片隅で喜んでいる自分がいた。
竜昌はその気持ちを封じるように、強く唇を噛んだ。
中にいるのは、あの信ではない。敵将だ。こちらの隙をついて襲ってくるかもしれない。
刀の柄を強く握りしめると、静かに抜刀した。
その時、
「入っておいで。こっちは素手だ」
小屋の中から、信玄の低い声がした。
驚いた竜昌は、刀を構えたまま戸口に立った。
信玄は小屋の薄暗がりの中で、片膝を立てて、囲炉裏の横に座っていた。いつのまにか囲炉裏には小さな火が焚かれ、刀はその火を挟んで反対側に置かれている。
敵意はない、という意味だろう。
竜昌は小屋周りの様子をうかがうと、そろりと一歩小屋の中に入り、後ろ手に戸を閉めた。
外からの光が遮断され、囲炉裏からの明かりにぼうっと信玄の姿が浮かび上がった。
信玄が、竜昌を迎えるように にこりと微笑んだ。
ああ、あの時と同じ────
安土で見たのと同じ甘い笑みに、竜昌の胸がじり、と焦げつくように痛んだ。
「さて、君に斬られる前に、少しだけ話をさせてくれないかな?」
「…」
竜昌は答えなかったが、構えた剣の切っ先が僅かに揺れたのを、信玄は同意の印と受け取り、穏やかな声で話しはじめた。
「まずは君に…謝らなけりゃならない」
信玄の顔から、笑みが消えた。
「正体を隠して君に近づいたこと。そして…君を愚弄し…傷つけたこと」
竜昌は小さく息を呑んだ。
「本当に、すまなかった」
そう言って頭を下げる信玄の影が、壁に映って揺らめいた。
「許してくれとは言わない、けど、情けない男の最後の言い訳だけ、聞いてくれないか」
相変わらず、竜昌は黙ったまま刀を構えている。
信玄は、その竜昌の瞳にちらちらと囲炉裏の火が反射するのを見つめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。