第16章 【信玄編・中編】
時薬────時間がすべての傷を癒してくれる。
竜昌にも日常の生活が戻ってきた。
努めて何事もなかったかのように振舞う竜昌だったが、信玄と二人でいった茶屋の前は避けて通ったりと、ささやかな自己防衛だけはしていた。
信玄にもらった藤の髪飾りは、抽斗の奥の、そのまた奥に仕舞った。
そんなある日、竜昌は日課となっている正宗との鍛錬を終え、汗をふきつつ安土城の廊下を歩いていた。
すると、ふわりと風に乗って、甘くてどこか少し苦いような匂いが流れてきた。
『この匂い・・・』
記憶が浮かびあがってくるよりも一瞬早く、竜昌の体が先に反応し、胸のあたりをぎゅっと絞られるような痛みが襲った。
痛みを抑えるように、竜雅は握りこぶしを心臓に押し当てた。心臓はまるで今にも爆発しそうなほど激しく脈打っている。
いつか嗅いだ匂い。
信玄の羽織からふわりと漂ったあの匂い。
神社の境内で抱きすくめられた、あの胸の温度。
竜昌の脳裏に、そのときの感覚がありありと浮かびあがってきた。
『なんで・・・この匂いが・・・』
竜昌が立ちすくんでいると、近くの部屋の襖が開き、そこから家康が姿を現した。とたんにその匂いが、ぶわっと強く辺りに流れ出した。
「あ、竜昌」
廊下に立ち尽くす竜昌の姿をみつけた家康は、少しだけ肩をすくめた。
「ごめん、匂い気になる?」
「これは・・・?」
「肺病の薬を今煎じてるんだ。親戚に頼まれてね。独特の匂いするだろう」
「!!」
竜昌は目を見開いた。
道理で、いつか嗅いだことがあると思ったわけだ。
竜昌が十四のときに肺病が元で亡くなった父親が飲んでいたものに違いない。
そしてまた、信玄も・・・
『病で死んだと聞いていたが…減らず口を叩くほどの元気がまだあったとはな』
あのときの、光秀の台詞が胸をよぎった。
小雪のちらつく中、羽織を貸してくれた信玄の、慈しむような笑顔が、脳裏に浮かんだ。
「ちょっと、竜昌…」