第16章 【信玄編・中編】
「はい」
「どうしたの…」
家康が、明らかに動揺した様子で、竜昌の頬に手を伸ばした。
「え…あ…?」
気がつくと、竜昌の目からは大きな真珠の粒のような涙の雫が溢れ、ほろほろと頬を伝い、着物や床に次から次へと染みを作っていた。
そこへ、竜昌の後を追うように政宗もやってきた。
「よー家康。なんだぁこの匂い?」
「政宗さん、アンタこの子に何かした?」
「あン?何もしてねえよ。っていうかどちらかというと叩きのめされたのは俺だし──ッてオイ、どうした竜昌!?」
顔を覗き込んできた政宗が、顔色を変えた。
「わかんな…ごめ、なさっ…ウッ…」
狼狽えた家康と政宗は、静かに泣き続ける竜昌の肩を、慰めるようにただ抱くことしか出来なかった。
そのように、記憶の洪水に押し流されそうになったのも、今は昔────
梅が散り
桃が散り
桜が満開になるころ
竜昌は、風に吹かれた桜の花びらが、キラキラと輝きながら天空へ舞い上がる様子を、ただぼんやりと眺めていた。
春風に乗った白い花びらたちは、遠くへ遠くへと飛んで行き、やがて青空に溶けるように見えなくなっていった。
『このあたりで桜が咲くころに、ようやく梅がほころび始めるくらいでね…』
竜昌は、信玄が故郷を語った言葉をふと思い出していた。再び胸の芯がずくりと痛んだが、近頃ではもう、無闇に涙が溢れてくるようなことはなかった。
今ごろ、もう誰もいなくなったあの人の故郷でも、梅の花が芳しく咲いている頃だろうか。
梅の花よ、どうかその匂いで、あの人を故郷に導いてやっておくれ…
【東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ】
「竜昌、こっちへ来て酌をせい」
「はい御館様、ただいま」
信長に呼ばれた竜昌は、桜の大樹の下で花見をしている安土の武将たちの輪の中に、笑顔で戻っていった。
【信玄編・中編】(完)